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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『何か順序これまで難儀不自由の道諭し置く。成程道は天然自然の理である。天然自然の理で治めるなら、どれだけ危ない所でも怖わい所でも、神が手を引いて連れて通る。天の綱を持って行くも同じ事。』(M33、2、11)
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昨日の記事に対して、別のブログでコメントをいただきました。そのレスに大切なことを書かせていただきました。そのレスに少し手を加えて、今日の記事とさせていただきたいと思います。


人間の身体は“親神様からのかりもの”であり、一時も休まずに“十全の御守護”をいただいています。

人間は、朝目が覚めたら、呼吸が出来て、目も耳も鼻も口も両手両足なども、自由に動かすことができる。又、夜眠りにつき朝目覚めさせていただけるということを当たり前のように思っていますが、眠っている時に誰一人として呼吸を意識している人はいません。
又、起きている時でも、呼吸を意識したり、心臓や内臓の働きを意識して自分自身でやっている人はいません。
そして、手や足も自由に動かすことができて歩くということを、右足出して次に左足を出すなどと考えて歩いている人はいないと思います。
これらは、すべて親神様の十全の御守護をいただいているからこそ、可能なことなのであります。
そして、人間は、親神様のご守護なくしては、一秒たりとも生きてはいけないのです。

しかし、人間はあざないものでありますから、それらのことを当たり前のことだと思っているわけなのです。
もっとしっかりと心の目を開き、目が見える、耳が聞こえる、匂いもかげる、言葉も話せる、手足が自由に動かすことができる。
そして、呼吸もできる、食事もできるなどなど、すべては親神様のご守護があればこそ可能なことなのです。
それゆえに、「親神様から身体をおかりし、十全の御守護をいただいている」ということを、ほんとうに“有り難い”と深く感謝し喜ばせていただくことが大切なことなのだと思います。
人は望みが叶った時、欲しいものが手に入った時、有り難いと思うものである。
しかし、有り難いとは、有ることが難しいと書く。もしかすると、有り難いとは、望みが叶ったり、欲しいものが手に入ったから感じるものではなく、有ることが難しいということに気付けた時に、感じるものではないだろうか。
今、与わっているものを、当たり前に思っているが、与わらない人からすれば、羨(うらや)ましい限りである。もし、今、与わっているものが、無かったらと考えると、与わっているものを、有り難く思えるはずである。
有ることに慣れてしまった私たち、今一度身の回りの与わっているものに対して、有り難いことなのだと、気付ける努力をしてみてはどうだろう。(「ほっ」ますだまさよし著 善本社刊より)
『明らかな道運ぶなら、明らか。明らかな先々先々諭す理は、直ぐと利益見える。人々(にんにん)の義理を病んでは明らかな道と言わん。………いかなるも、さあ/\人間心混るというはどうもならん。早く治めてくれるよ。』(M24、7、5)
『“にをいがけ”という。古き諭(さとし)にある。一人の精神の事情あれば、一国とも言う。』(M25、5、28)

“にをいがけ”に出さしていただいても、なかなか“にをい”はかからない。
しかし、“一人の精神の事情”つまり、“どうでもこうでもという精神”を定め、心をたおさずに歩んでいると、種を蒔いて歩いていることになり、やがて花がさき実がのってくる。
そして、それは「一つの国全体に“にをい”がひろがってゆくことにもなる」とおっしゃられているのだと思います。
『心得んと言えば、だん/\心に事情を沸かす。ほんの些(いささ)かの事情を心に沸かさんよう。事情は世界という。めん/\心に“たんのう”一つの理を治めば、身は速やかという。身上案ぜる事は要らん。』(M23、9、4)


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