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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『………そうしてどうじゃ、人間生れる“をびや許し”。それはどうじゃ/\、さあどうじゃ。“をびやさんしき”許す、それはどうじゃ。すっきりと今一時出来る、たゞ一つ出来て了う。すっきり常の通り/\。さあどうじゃどうした、常の通り産をして了う。常の通り毒は要らず。いつ/\すっきりいんじりとも動かず/\、僅かの日じゃで。皆世界一時、そのまゝ常の通り、これが第一“をや”人間始め証拠。………』(M22、9、23 刻限御話)
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『何か心に承知した処、成っても成らいでも運び切らにゃならん。心に治めた理なおざりというは、何かなろまい。』(M33、10、6)

会長さんから話を聞いたり、また、おたすけ体験談の講話を聞いたりすると、ああそうか、よしやるぞ、と気持ちが盛り上がってくる。こうしたとき、あらためてそれまでを振り返るとともに、これからこうさせていただこう、こういう心で通らせていただこう、などと心に決めることがしばしばである。ところが、そうして心に決めたことも、いつしか忘れてしまっていることが多い。なぜ忘れるのか。ご守護を頂いて、喉元の熱さを忘れるからである。また一つには、あまりにも結構すぎるからである。暮らし向きに大した変化が現れてこないからである。いいかえれば、神のご守護とは枯木に花が咲くようなことと思っているからであろう。
大切なことは、心に治めたことを、成っても成らいでも運びきることである、といわれている。それをなおざりにするから、成るものも成ってこないのである。
ものごとが成ってくるというのは、親神様のご守護、はたらきがあればこそである。それを自らの都合に合わせて、少しやってみて、何も変化がない、何も成らない、などと思ってしまう。与えられた仕事、御用でも同じことである。
「何か受け持ったら十分働き、めん/\一つ理立てるが真の誠」と仰せられる。十分に働いて、そこに親神様の思いを常に心において、運びきっていく、それが真の誠なのである。また「真実は神が働く。神が働けば、後にそうであったなあと楽しむは道」とも仰せられる。
人間の真実に親神様がはたらいてくださる。そうした道中を通る中に、振り返って、あのときはこうであったと思い出され、楽しみ溢れる暮らしが生まれてくる。陽気ぐらしは、私たちの日々常の歩みの足元にある。(『今日は晴天、今日は雨』 安井幹夫著 道友社刊より)
『真実一つで難儀不自由の道を通りて、今日の日という。もうこれ長らえての道を通りて、艱難(かんなん)の道を知らずして、あんな阿呆(あほ)らしい事は措(お)いたらよいという。こうしたら勝手が良い。こうやれば良いと思えど、天の理でいかん。治まらんで。』(M22、9、16)
『“いんねん”という、これ聞き分けるなら、前生“さんげ”という。よく聞き分け。“さしづ”貰たなれど身上なあ。分からんから皆思う。………“いんねん”生まれ更わり、よう思案してみるがよい。しよと思うて成るものやない、しよまいと思うても成る理。これ聞き分け。又世界聞き分けて、いかにも成程と集まれば又暫くと言う。』(M26、7、18)
『………どうで生まれ更わりの理があるによって、もう“たんのう”はっちゃ受け取る処無い。事情日々の処運ぶなら、何案じる処無い。』(M31、2、4)

生まれ更わりの理があるから、どんな中も“たんのう”しか受け取るところはない。日々“たんのう”して通るならば、何も案じるところはない。(「事情さとし」深谷忠政著 養徳社刊より)

“たんのう”とは、いかなることであっても「成ってくる理」を素直に受け入れて『十分満足する!!』ということであります。
これには、生まれかわりの理を悟り、しっかりと『因縁の自覚』をさせていただくことが必要だと思います。
『………元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教(おしえ)には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。手余りを救けるのは誰も何とも言うまい。』

※このお道の御教えの本質は、親神様の教えの理によって、医者の手余りの身上やどうにもならない事情を救けてくださる道であります。
そして、『心だすけ』、即ち「“いんねん”納消」が主眼であり、病の元や様々な苦しみの根を切り、人間を芯(魂)から救けて下さる道なのであります。
『神は隔て無いで/\。しっかり聞き分け。さあ/\聞き分け。内も外も同じ理や。人間は“かしもの”や/\と聞かしてある。世界にはいかなる事も皆映してある。それ世界に映る。世界は鏡や。皆々めん/\心通りを身の内へ皆映る。前生の事もどうなるも、皆身の内へ映すと聞かしてある。“たんのう”と。いかなるも“たんのう”と。』(M22、2、4)
『“さしづ”はいつとても変わらん。一度の諭に生涯の理まで諭してある。理のある限り神の“さしづ”の理は変わらん。………何が間違う、こうが間違うと思う心が間違う。………皆分からんで、日々苦労して居る。それはどうしたさかいにどう、こうしたさかいにどう、という理は無い。医者の手余り捨てもの救けるが、神の“たすけ”という。』(M29、5、1)

医者にかけたからどうとか、かけなかったからどうとか、人間思案は必要がない。あれこれ案じ心がわくゆえ、皆、心で苦労しているが、医者が見放したものを救けるのが“神のたすけ”なのであるから、“さしづ”通りしっかり心を定めて神様に凭れ切って、誠真実を尽くしておたすけさせていただくという心が大事なことである。
今日で、このブログが満一歳になりました!!

今日は、教祖(おやさま)のお言葉から、八つのほこりの取り方、はらい方を思案させていただきたいと思います。

「『八ツのほこりを取るのは、たやすいものやで。この障子の建て付けが、柱もまっ直ぐなら、障子もまっ直ぐで、ぴたりとそうやろ。けれども、敷居のみぞに一粒の豆でもあったら、建て付けがそうまい。そんなものやで。この豆さえ取ったら、よう合うのや。八ツのほこり取るのは、この豆取るようなものやで。六ケ敷い(難しい:ひろ)ことはないで。』(正文遺韻抄 二五四ページ)」(『しあわせを呼ぶ心』尾崎栄治著 善本社刊より)

…という教祖のお諭しがありますが、ここでいいます「豆」というのは、「我が身可愛い」(自分さえよかったらいい)という“欲や執着の心”であると思います。

また、以前の記事でも書かせていただきました〈『つかんでいるその手を放す①』〉〈『つかんでいるその手を放す』②〉にあるように『つかんだその手を放す』ということも、同じように“八つのほこり”を取る一つの方法だと思います。
つまり、「自分のものだと思って、一生懸命つかんでいるその手を放す」ことにより、“欲”や“執着”から解き放たれて、“ほこり”をはらうということに繋がるのだと思わせていただいています。
『人は一代名は末代、と、これ伝えたる。真実は誠、実(じつ)である。実は世界、又道と言う。実あれば、どんな曇り被(かぶ)せようと言うて被せられん。真の理、天の理、天の理は曇り掛からん。よう聞き分け。前の掛かり、細々(ほそぼそ)理、泣き/\通り、それから心楽しみて、道に理があり、身に一つ余儀(よぎ)なく障り。障りから一つ聞かす。最初の理は元。後の道は無い。元の心無けにゃならん。元の心受け取りて理である。受け取りて理は、どんな剣(つるぎ)というとも、岩の中でも切れやせん。理は元の理、元の理は神の話す理。』(M29、8、22)

誰が何と言おうとも、実を積み重ね、天の理が頂ける人になることだ。陰ほど真実を尽くすことである。(『おさしづ一日一言』 渡部与次郎著 道友社刊より)


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