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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\/\/\、一日の日が治まれば身が治まる。どれだけの力を入れる。治まらん事は治まらん。“さしづ”聞いて“さしづ”通り運ぶは皆道理、“さしづ”受け、“さしづ”通り運ぶ。皆治まる。遠くの所大層々々は一寸(ちょっと)もするやない。大層は世界所々の理を持てば、所治まる。治まらんというは、心治まらん。何処にどういう名を下ろす。善いと思う人間心。だん/\悪なる。あゝ言われるけれど、“さしづ”の理取りよ一つでどうでもなる。真実一つの道をどうせば満足という道を運べ。人間は皆“かりもの”、“かりもの”の事情を聞き分けば、一日の日が治まるで。皆治まる。尋ねる事情辺所の事情、変わり/\又変わり、何年経っても成らん者はどうもならん。人間は神の“かりもの”、成らん者は神が退ぞく。“かりもの”分からん/\。先ず先ず初まりの一つの理を以て、穏やか/\の理を治める。いつ/\までの穏やかという。』(M21、10、12)
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『心の精神の理によって働かそう。精神一つの理によって、一人万人(いちにんまんにん)に向かう。神は心に乗りて働く。心さえしっかりすれば、神が自由自在(じゅうようじざい)に心に乗りて働く程に。』(M31、10、2)
『さあ/\神一条の理、“たすけ”一条の理、遠慮気兼は要らん。尋ねて来るなら聞かせ。この理何程人が寄るとも知れん。これが自由(じゅうよう)。聞かせ/\置きたる、尋ね来る、聞かせ。十分遠慮は要らん。日々真実聞かすなら、多くの中なれば、神一条世界の身の内“たすけ”一条のため出て来るなら、一つ話聞かせ/\。聞かさねば分からんで。何も“たすけ”一条の事は後へ引くでない。』(M21、6、19)
『………これまでならん中、多くの中、なか/\の中、世界の事情一時治まる。神一条の理どうであろ、思うた処で治まると言うたら十分。それ/\心尽し十分心受け取る。一時一つ何でも生涯末代。この理一時聞かし置く。治まるというは、心一つを以て治まる。』(M22、9、22)



昨日は、大教会の別席団参でした。
なかなか、この五ヶ月の間にほんとうにいろんなことがありましたが、その中にも神様の自由(じゅうよう)の不思議をことあるごとにお見せいただきました。
ほんとに奇跡としか言いようのないご守護をいただき、めでたく理の子がお母さんと共に初席を運ばせていただくことが出来ました。

時には心を倒しそうになったり、あきらめかけたりとほんとうにいろんなことがありましたが、彼と彼のお母さんに、やっと成人の道への第一歩を踏み出していただくことが出来ました。

これからも、親神様・教祖(おやさま)からいただいた大事な子供を育てさせていただく親の心で、理の子たちを育て導かせていただきたいと思います。

ひろ
『どんな暗がりの中でも、心一つで通れる。どんな明るい中でも、心が無けりゃ通れようまい。………だん/\世界、幾重の道も出ける。誰がどうするでなし。自然と出来て来る。………どうでも連れて通る。連れて通るには、心に理が無けねばどうもならん。』(M24、5、29)
『人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、澄み切る教(おしえ)やで。今までの修理肥で作り上げた米が、百石貰(も)ろたら、百石だけある間は食(たべ)て要らるゝ。今度無い世界を始めたる親に凭れて居れば、生涯末代の“さづけ”やで。これは米に諭して一寸(ちょっと)話して置く。』(M20、3、22)

(注)〔食(たべ)ての「食」は、口へんに食でしたが漢字がありませんでした。〕
『さあ/\、道の道なら、通さにゃならん。なれど長い道、これもしいかり聞いて置かねばならん。どんと心を定めて運ぶなれど、この道は、いつ/\の事であろうと思うて、退屈であろう。そこで、内の事、何よの事も、こうあゝと思うてする事は、どうせにゃならん、こうせにゃならんと言うて、“さしづ”は無い。さあ/\これも聞いて置かねばならん。立毛の育つも、この世始めも同じ事、無い人間を拵(こしら)えて、初めより、ものが言えたやない。一年経てば一つ分かる。又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、もの言うように成りたも同じ事。順序事情の道伝うて、何事も一つ/\分かる。道を伝うて、何事も一つ/\分かる。道皆ちゃんと決まりてあるのや程に。内々身の内障り付く。これを聞いて置かねばならん。』(M20、8、23)

この道は、神のつけた道であり、天然自然の道であるから、何事においても一つ/\順序を経て通っていかなければ、物事は成ってこない。
また、身上や事情を通して心の切り替えを促し、一歩/\成人へと導いて下さっている。
なかなかすぐには進歩しなくとも、一歩/\着実に前に進んでいれば必ず目的地に到達する。
この道は、必ず『陽気ぐらし』の世界へと到達できるように成っているのだから、しっかりと心を定めて、親神様おやさまを信じ切って凭れ切って、一歩/\前進させていただくことが大事なことだと思います。
『心という、毎々心に掛けて“あたゑ”という、理ある。“あたゑ”は急(せ)いて急かず。事情集まりてくれば“あたゑ”という。』(M30、6、26)

親が子を思う心は、寝ても覚めても絶え間のないものだと思います。おたすけ先に対しても、それと同じ心をかけてこそ、本当のおたすけでしょうね。
いくら心にかけても、わが身のこと、わが家のことは、なかなか思うようにならぬものです。それに対して、神一条のことは、不思議と思うようになるものです。だから、わが身、わが家なことは急がず、後回しにして、神一条のことを優先して急いでさせていただくと、うまくいきます。そのように続けているうちに、わが身わが家の方にも、だんだんとお与えが回ってくるようになります。
雨の降っているところに、一升マスと二升マスを並べて置けば、一升マスには一升、二升マスには二升、雨水がたまります。器の大小によって入る量が決まります。天の与えも、その人の器の大きさ、徳の大小によって決められていくものでしょう。
だから、徳の積み方についていろいろ勉強し、研究し、日々、徳が積めるように心を使い、体を使わせていただくことが大事になってきます。お金と同じように、徳も、ためるのには大変な努力が必要で、長い時間がかかるものですが、なくすのは一時の間です。うっかり落とさぬための研究もしなければなりませんね。(「おさしづに学ぶ」渡辺与次郎 道友社刊より)
『………生れ更わりの事情、“いんねん”の事情、世界の事情見て身の理を見にゃ分からん。重々の治まりは、いつ/\一つの治め方、第一育てる事情でどんな処も治まる事情、互いというを以て通ればどんな処も通れる。』(M23、3、3)

前生の生まれ更わりの“いんねん”によって、どんな人にも出くわすであろうが、世の中の事情を見て自分を考え、どんな人にもお互いに、“いんねん”ある人と思って育てていくところに治まってくる。(「事情さとし」深谷忠政著 養徳社刊より)
『………皆一名一人の理、生まれ更わり、いつの理に定めという。心得まで。いつにどうと定めたるもの、心の理によって洗い替え。いかなる理も、大難小難という理は、よく聞き分け。………』(M21、7、3)

皆それぞれ“いんねん”があり、いつ生まれ更わるかは親神が定めている。そのように定めているけれども、心の遣い方によって、洗いかえ長生き出来る。どんなことも親神が、大難は小難に連れて通っていることを、よく聞き分けるように。(「事情さとし」深谷忠政著 養徳社刊より)


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