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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『たゞ一つの理、理は一つより無い/\。跨(またが)りの理を拵えるからならん/\。事情これだけと思て、成る理聞き分け。一つの理難しい。………中に同じ事、新しも同じ事、真の理心に治まれば、真の事も無きもの。』(M31.3.27)
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『世上から見ては、あれでこそ成程の人や、成程の者やなあという心を持って、神一条の道を運ぶなら、何彼の処鮮やかと守護しよう。』(M23.5.6)
『誠は尽きん、尽きんが天の理。………どんなもの作るにも旬々という。誠さえ十分固めてあれば、何も案じる事は一つも無い。誠薄ければ種が失う。』(M23.11.21)
『修行の理は分かりて居る。身上の事情あっては出来難ない。速やかになる。暫くの処これどうであろう。深き何でも十分の学をし、十分の学を治めよう。智者学者あっても何にも治まらせんで。一つの理を始め掛け、日々暮らさせたい。思う道もう暫く。日々の理、事情より治まる理が無きという理を治めくれるよう。』(M23.2.3)
『親という理になって、どういう事もこういう事も親に計れば、一寸(ちょっと)に理を聞き分け。十分子が成人する。親々の理子にある。子に真実誠あれば理がある。古い者は親ともいう。親の理が治まらん。どういうものである。古い程難しい。………この“ぢば”本部や。古き“をや“なれば十分の理が無ければならん。………さあ/\“をや”/\の元々の理、“をや”/\の理を諭し、十分の理を諭してくれるよう。』(M24.1.8)
『これまで“をや”が皆通り来たる道、聞いても居る、見ても居る。皆断じ合うて通りてくれ。大きい心を持って通れば大きい成る、小さい心を持って通れば小そうなる。親が怒って子供はどうして育つ。皆、“をや“の代りをするのや。満足さして連れて通るが親の役や。皆、満足さして、元の“ぢば”や親里やと言うて、満足して帰るのやで。どんな事も断示して満足さすよう。』(M21.7.7)
『最初元々一つ定めた心は末代、途中でこれではと言うようでは、定めたとは言えようまい。一時どうとはない。なれど、よう心を治めてくれ。長い間の年限の中、ならん/\の道を通り、よう/\の日という。さあ第一元という、この一つの理を忘れんよう、しっかり定め。』(M30.10.30)
『人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教(おしえ)やで。』(M20.3.22)
『これまでの“さんげ”は言うまでやあろうまい。見て“さんげ”、見えて“さんげ”。後々の事言うまでや。これから生涯先の事情定めるのが“さんげ”。これ一つ第一に定めにゃならん。』(M25.2.8)
『元というは“をや”という。“をや”という理は可愛い理に育てば、どんな所も育つ。親と成りて育つるは可愛いという理を以て育てるよう。これだけ一寸(ちょっと)話置こう。』(M22、11、29)


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