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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『………天という見通しの理の上を越そと思うても、越さりゃせん。一人二人で足場無しで登れるか。よう思やんしてみよ。台という理分からねば、何処から登ろうと思うても登られん。………』(M31.2.27)
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『何でも神の道は綺麗な道や。綺麗に聞かして満足、めん/\事情それ/\運ぶ処、満足治めにゃならん。』(M23.11.22)
温かいお母さんのような心(慈悲)と厳しいお父さんのような心(智恵)を兼ね備えた心!!

そして、決して腹を立てずに、一つのことにこだわらない(執着しない)心。

また、甘やかさずに、上から抑えつけずに我をはらない常に低い心。

そして、優しい言葉をかけ、決して愛想つかしをしない(切らない)でつないでゆく優しい心。

そして、決してうそをつかず、上面だけのついしょうは決して言わないという正直で素直な心!!

こういうような大きくて深くて広い心が、理の子をお与えいただいた“よふぼく”にとってのひじょうに大切な『親心』なのだとだと思います。
「皆さん方の中には、子育ての経験者も未経験者もおられるでしょうが、親というものは子供を育てる時、一人一人の性質や理解度をよく心得て、言葉を選び態度を変えて、子供が納得してくれることを願いながら、繰り返し躾けますね。これは、自分の血を分けた子供に対する親の立場から考えても理の関係をつけていただいたところの理の子に対するところの心得も、同じことだと思うのです。一つの方法が失敗に終わったからといって諦めるのは、“ひながた”にはないのであります。繰り返す努力というものは、“ひながた”をたどる我々には、“ひながた”によって十分教えていただくことはできても、一つの方法が失敗に終わったらもうそれでやめとけ、というような教えはないのであります。むしろ、繰り返す努力こそ、教祖(おやさま)の“ひながた”をたどる私たちの心の“ふしん”なのです。一度でだめなら二度でも三度でもどれだけ時間を費やしても、根気をもってし続ける。これは親が子供可愛い気持ちから、その子供の成人を願う時に払う親心を考えたならば、よく分か
るのであります。」(『真柱お言葉・万人のひながた』〔親心〕より)
『………しっかり取次、道付け始まる。どういう大道大道、大道の掛かり。どういう、何人々々、幾名、一人思案定め/\。泥水だん/\迫り、泥水が澄まする。………大きな“ふし”見える。大きな“ふし”なら、大きな心据える。大きな“ふし”、大きな“ふし”が出る。………。談示々々水の席火が出る、火の席に水が出る。そこで水の席に水、火の席に火を以て、いかなる処、談じ置かねばならん。』(M20.6.24)
『………どうでもこうでも登れん。その場/\治めにて、又一つ道。さあ/\分からん処には、何ぼ誠説いても誠とせん。何ぼ貫ぬこうと思うても、関があっては登れん。登られんから帰る。帰るのも道ぢゃ。関があるから、邪魔になる。関は神が取るのやで。関さえ取れば、登れるであろう。又関貫ぬこうと思うゃ、余程の長く掛かる。』(M20.6.28)
『さあさあ悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。悪風に向こうたら、つまずくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで。」(稿本天理教教祖伝逸話篇『一八三 悪風というものは』より)
『勝手の道通りて“いんねん”という。………これからは談示一つ、“さしづ”の道より立たせんで。俺が/\がというは、薄紙貼ってあるようなもの。先は見えて見えん。………勝手一つの理は邪魔になる。』(M24、5、10)
『悪風の理に混ぜられんよう。悪説に誘われんよう。悪理に繋がれんよう。三つの理いついつ混らんよう。両手運んでも、両足運んでも、一つの理が治められん。道の理皆考え、………遠く所より胸三寸磨くよりは外にあろうまい。』(M30.1.12)
『腹立てさゝぬよう。さあ/\無理どんな事言うても、どんな無理言うても、何もならせんで。さあ/\言えば言う程言う者は言う通りに成る。』(M21.7.7)


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