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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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《くにとこたちのみこと》
人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理。

《をもたりのみこと》
人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理。

《くにさづちのみこと》
人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理。

《月よみのみこと》
人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理。

《くもよみのみこと》
人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理。

《かしこねのみこと》
人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理。

《たいしょく天のみこと》出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理。

《をふとのべのみこと》
出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理。

《いざなぎのみこと》
男雛型・種の理。

《いざなみのみこと》
女雛型・苗代の理。
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『長いという、長い心持たにゃならん。長いという心の中に、身上自由なあと思う処、取り直し。末代という理は、これより無い程に。皆生まれ更わり/\と言う。よう聞き分け。この理分かれば、日々苦し中に楽しみあろ。………どんな理も世上にある。この理聞いて心に“たんのう”。………成らん中の“たんのう”は前生“いんねん”の“さんげえ”である。身上の処大層。一時でないなれど、満足与えて、楽しみ付けてやれ。運び損にならん程に、尽し損にならん程に。末代の理に受け取ってある程に。』(M34.9.27)
『二度三度の身の障り、これまでの身の障り順序の速やかなるは身の障りに、神の思わく授けもの。内内の処、心一つ定め。一度とも二度とも三度やら分からん。さあ/\何時とも。』(M20.8.28)
『人間というものは、身は“かりもの”と、話もこれはして居るやろ。内に誠という理を聞き分け。自由自在というは、めん/\誠の心である。世上より成程の人や/\と言う心、天に映る。これが“たすけ”の理や。救けるには、めん/\未だ/\と、心治め。成程という心治めば、身も治まるやろう。』(M21.6.10)
『“さづけ”を取り次ぎ、“たすけ一条”に励む時、心の“ほこり”はおのずから払われて、“陽気づくめ”の心と入れ替わり、人の心は成人する。成人は、理の御用を通してこそ、果たされる。』(真柱お言葉「万人のひながた」より)
先にお道につかせていただいたものが、お世話をさせていただく方をお与えいただいた場合、その方を親神様おやさまからお与えいただいた“理の子供”と思い、自分自身が親となって、おやさまのお通りくださった“ひながた”の親心を真似て、“をや”のかわりをさせていただき、成人へと育てあげるのが“理の親”の役目なのであります。

そして、理の親信仰というような特別視するようなものはなく、すべてのよふぼくは、“にをいがけ・おたすけ”に励み、親の気持ちになって親心をもって、お与えいただいた“理の子”を丹精させていただくことが大事なとであると思います。
またその道中においては、“理の子”に見せられる因縁を我が因縁と心得て、しっかりと自分自身の“因縁の自覚”させていただき、“さんげ”及び“たんのう”させていただくことにより、お互いの因縁は切り替わりってゆくのであります。
これを『人を救けたら我が身救かる』ということになるのだと悟らせていただいているわけなのです。
昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖に伺ったところ、
「それは、前生の“いんねん”や。この子がするのやない。親が前生にして置いたのや。」
と、仰せられた。それで、親が、心から“さんげ”したところ、鮮やかな御守護を頂いた、という。
(教祖伝逸話篇 一七二より)
『苦しみの道通りてこそ立つ。大きく成る。これから、大き心を持ってくれにゃならん、持ってくれにゃならんの処、一々物を持って行て、どうとは出来ようまい。そこに一つの情愛という心ある。一人救けたら万人救かるという心持ってくれ。一人狂うたら万人狂う。成らん事せいとは言わん。一人救けりゃ万人救かるという理、心に治めにゃならん。何が違う。幾国何人あろう、元一所。子供、一人育てば皆々育つ。一人潰せば皆潰れる。………前々から、田の中、野中の事思うて見よ。神は嘘は言わん。教祖存命伝えたる。年限まで切って聞かしたる。これだけのもの、どれだけのもの、金持ったて世界に拡げられるような事はない。これは皆、神の守護。楽しみ中も違わん。楽の中に苦しみという。苦しみの処、通り抜けにゃならん。元々から大きものは無い。一年は一年、二年は二年、三年は三年の理、見えて無くば嘘である。そこで皆々心を持って、こうもせにゃならん、どうもせにゃならん、と、めん/\の心に持ってくれにゃならん。時聞き分けて談じ合い/\の心、水も漏れんよ
う十分運べば、神の守護と言う。神の守護は珍しきもの。』(M37.12.14)
『多くの中が難しい。多くの中に世界の道理、今一時人を毀(こぼ)つで“ほこり”が立つのやで。世上の道が狭く成る。人さえ毀たねば人の事を悪く言う事はない。人を毀つで、あちらからこちらから眺める。あの者この者が何でも実々の道を通るに、悪く言うたら善き道とも、“たすけ”道とも言うまい。日々の道を通ろうと思うては、人を毀ったり悪く言うてはどうもならん。人を毀って、何ぼ道を神が付けても、毀つから道を無いようにするのやで。(M23.2.6)
『論は一寸(ちょっと)も要らん/\/\/\。論をするなら世界の理で行け。神の道には論は要らん。誠一つなら天の理。実で行くがよい。』(M22.7.26)


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