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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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今日は、ちょっとダウンしていました。(^^;)

『おかきさげ』

『さあ/\だん/\の席返す/\の席をして、さあ一日の日というは生涯の心一つの理を以って一つ席とす。席に順序一つの理は、よく聞き分け。席に順序一つの理は、生涯の理を諭す。生涯の理を諭すには、よく聞き分け。難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。受け取る中に、ただ一つ自由という一つの理。自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。日々という常という、日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。又一つ、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治ま
るという。それ世界成程という、成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という。よく聞き取れ。又一つ、これまで運ぶという、尽すという。運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。互い扶け合いというは、これは諭す理。人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。よく聞き取れ。又一つ、これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め。又一つ、第一の理を諭そう。第一には、所々に手本雛型。諭す事情の理の台には、日々という、日々には家業という、これが第一。又一つ、内々互い/\孝心の道、これが第一。二つ一つが天の理と諭し置こう。さあ、これより先永く変わらん事情に。』
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みなさん、おはようございます!!m(_ _)m
今日は、ご本部の春季大祭です!!
たぶん、西地下礼拝場の身障者用トイレの少し前の方で参拝させていただいていると思いますので、もしよかったら声をかけて下さいね~!(^-^)v


第三号つづき

03.113
いまゝでの事ハなんにもゆてくれな 廿六日にはじめかけるで

03.114
これからハせかいの心いさめかけ にほんをさめるもよふするぞや

03.115
にんけんの心とゆうハあざのふて みへたる事をばかりゆうなり

03.116
これからハない事ばかりといてをく これからさきをたしかみていよ

03.117
どのよふな事もたん/\ゆいかける みへたる事ハさらにゆハんで

03.118
このよふをはじめた神のしんばしら はやくつけたい神の一ぢよ

03.119
めへにめん神のゆう事なす事を たん/\きいてしやんしてみよ

訳)「今までのことは、何も言ってくれるな。〈正月〉二十六日に初め掛ける。〈そのために〉これからは“せかい”の心を“いさめ”かけ〈るもようと〉、“にほん”を治めるもようをする。人間の心というものは浅はかで、〈眼の前に〉見えた事ばかり言う。これからは〈今までに〉ないことばかり説いておく。これから先〈にどうなるか〉をしっかり見ていよ。どんな事でもだんだん(順序を追って)言い掛ける。〈眼の前に〉見えている〈ような〉ことは決して言わない。この世を初めた神の“しんばしら”を早く〈据え〉つけたい。これが神の一条〈の話である〉。眼に見えない神の言うことすることをだんだん(順序を追ってよく)聞いて、思案してみよ〈、わからぬことはあるまい〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)
第三号つづき

03.101
にち/\に神の心のせきこみを そばなるものハなんとをもてる

03.102
上たるをこわいとをもていすみいる 神のせきこみこわみないぞや

03.103
むねあしくこれをやまいとをもうなよ 神のせきこみつかゑたるゆへ

03.104
たん/\と神の心とゆうものわ ふしぎあらハしたすけせきこむ

03.105
このふしきなんの事やとをもている ほこりはろふてそふぢしたてる

03.106
あとなるにはやくはしらをいれたなら これでこのよのさだめつくなり

03.107
このはなしはやくみへたる事ならば いかなものでもみなとくしんせ

03.108
いまゝでハしよこためしとゆへあれど かんろふだいもなんの事やら

03.109
このものを四ねんいせんにむかいとり 神がだきしめこれがしよこや

03.110
しんぢつにはやくかやするもよふたて 神のせきこみこれがたい一

03.111
これまでハぢうよじざいとまゝとけど なにもみへたる事わなけれど

03.112
これからハいかなはなしもときをいて それみゑたならじうよぢざいや

訳)「日々に神の心の急込みを、そばなる者は何と思っているか。上たる者を怖いと思っていずんでいるが、神の急込み〈について上を〉怖いと思うことはない。胸がわるい〈と言っている〉が、これを病と思うな。〈これは〉神の急込みがつかえた故〈神の守護ができなくなった結果〉である。神の心〈に考えていること〉と言えば、だんだんと(順序を追って)不思議を現わし、たすけを急込む〈ことである〉。この不思議は何のことかと思っているが、“ほこり”を払って掃除を仕立てる〈こと、それによってみなの心を澄ます〉ことである。そのあと早く“はしら”(かんろだい)を入れたなら、これでこの世の定めがつくのである。この話が早く〈実現して皆に〉見えて来たならば、どんな者でも〈神の言うことを〉得心をせよ。今までは証拠試しをすると言ってあるが、〈この話題になっている〉“かんろだい”についても、何のことであるかわかっていない(得心がいっていない)。〈今話題になっている〉この者(お秀)は、四年以前に迎い取り(出直させ)、神が抱きしめている
が、これが証拠になるのである。真実に〈思うことは〉早く〈この者を〉返す(生まれ返す)段取りが神の急込みの第一である。これまでは自由自在〈のたすけをする〉と何度か説いて来たが〈時節が来ないため〉何も見えた(実現して来た)ことはないけれど、これからはどんな話を説いておいても、それが見えた(実現して来た)なら、自由自在ということがわかる〈ので、神の話は必ず実現するものである〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)
第三号つづき

03.092
このよふハにぎハしくらしいるけれど もとをしりたるものハないので

03.093
このもとをくハしくしりた事ならバ やまいのをこる事わないのに

03.094
なにもかもしらずにくらすこの子共 神のめへにハいぢらき事

03.095
なにゝてもやまいとゆうてさらになし 心ちがいのみちがあるから

03.096
このみちハをしいほしいとかハいと よくとこふまんこれがほこりや

03.097
このよふのにんけんハみな神のこや 神のゆう事しかときゝわけ

03.098
ほこりさいすきやかはろた事ならば あとハめづらしたすけするぞや

03.099
しんぢつの心しだいのこのたすけ やますしなずによハりなきよふ

03.100
このたすけ百十五才ぢよみよと さだめつけたい神の一ぢよ

訳)「この世は〈一れつ人間は〉、賑わしくくらしているけれども、〈人間生活の〉元を知っている者はいないので〈人々は苦しんでいる〉。この元を詳しく知ったならば、病〈などの身上・事情〉の起きることはないのに。何にも知らないでくらしているこの子供が、〈神の眼には〉いじらしい。どんなことでも、病というものはない。病があるのは心違いの道があるからである。この道というのは、“をしい”・“ほしい”・〈“にくい”・〉“かわい”・〈“うらみ”・“はらだち”・〉“よく”・“こうまん”、これが“ほこり”〈であり、病の元となる〉。この世の人間はみな神の子であ〈り、神は“をや”(親)であ〉る。〈親である〉神の言うことをしっかり聞き分けて貰いたい。“ほこり”さえすっきりと払ったなら、そのあとは〈だんだんと様々の守護を教えて〉珍しいたすけをする。真実の心〈を受けとり〉次第にたすけるので、このたすけによって〈人間が〉やまず・死なず・弱りないようにしたい。〈また〉このたすけとは、百十五歳定命と定めたい。〈これは全く〉神の
心の一条〈に思う話である〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)
第三号つづき

03.086
いまゝでハからがにほんをまゝにした 神のざんねんなんとしよやら

03.087
このさきハにほんがからをまゝにする みな一れつハしよちしていよ

03.088
をなじきのねへとゑだとの事ならバ ゑだハをれくるねハさかいでる

03.089
いまゝでわからハゑらいとゆうたれど これからさきハをれるはかりや

03.090
にほんみよちいさいよふにをもたれど ねがあらハればをそれいるぞや

03.091
このちからにんけんハさとをもハれん 神のちからやこれハかなわん

訳)「今までは“から”が“にほん”をままに(自由に)した。この神の“ざんねん”をどうしよう〈と思う程である〉。この先は〈神が“にほん”の者を連れて表へ出るから〉、“にほん”が“から”をままにする〈、そうしてこの世を治めて行く〉。みな一れつは承知していよ。〈“にほん”も“から”も〉同じ樹(人間)の根(元)と枝(先)とのことであるから、〈何かの異変があるときは〉枝先は折れてくるし、根元は栄えでる。今までは“から”は偉いと言っていたが、これから先は折れるばかりである。“にほん”を見よ、小さいように思っていた〈のであろう〉が、根(元)が現れれば恐れ入るぞ。{この〈“にほん”の〉力は人間業と思われない、これは神の力だ、これにはかなわない}〈と“から”の者は言うようになる〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)
第三号つづき

03.081
これからハ神の心と上たるの 心と心のひきやハせする

03.082
このはなし一寸の事やとをもうなよ 神がしんぢつみかねたるゆへ

03.083
これからハ神のちからと上たるの ちからくらべをするとをもへよ

03.084
いかほどのごふてきあらばだしてみよ 神のほふにもばいのちからを

03.085
しんぢつの神がをもていでるからハ いかなもよふもするとをもゑよ

訳)「これからは神の心と上たる者の心と心をひき合わせる。この話をちょっとしたことと思うな。神が、〈上が無知故に“せかい”を危ない道に指導して行く〉真実を見かねた故〈にする大事な話〉である。これからは、神の力と上たる者の力と、力競(くら)べをすると思え。どれ程の剛的(剛の者)でも、居るなら出してみよ。神の方には倍の力がある。真実の神が表へ出るのであるから、どんな手段をも講ずると思え。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)
第三号つづき

03.073
十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ

03.074
このあいだしんもつきくるよくハすれ にんぢうそろふてつとめこしらゑ

03.075
にち/\に神の心のせきこみハ ぢうよじざいをはやくみせたい

03.076
これからハにんぢうそろをてつとめする これでたしかににほんをさまる

03.077
しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに なにもこわみハさらにないぞや

03.078
なにもかもたすけ一ぢよとめるなら 神のさんねんみにさハりつく

03.079
しやんせよ万たすけのこのもよふ にんけんハざとさらにをもうな

03.080
いまゝでハなにかよろづがハからいで みなにんけんの心ばかりで

訳)「十一に九で(二十)苦がなくなって辛(しん)を忘れる正月二十六日を待つ。この間に“しん”も付き来る〈ので〉慾を忘れて、人衆が揃って“つとめ”のできる準備をする。日々に神の心に急込んでいるのは、自由自在〈のたすけの守護〉を早く見せたいということである。これからは人衆が揃って〈“かんろだい”の〉“つとめ”をする。〈この“つとめ”によって珍しい自由自在のたすけの証拠ができるので、〉これで確かに“にほん”は治まる。真実に“たすけ”一条であるから、どんな怖いことも全くない。〈ただ〉なんでも“たすけ”一条を止めるというなら、神の“ざんねん”が〈その者の〉身上に現われて来る〈とだけは言っておく〉。よく思案してみよ、“よろづたすけ”をするこのもよう(手段)は人間業と少しでも思ってはいけない。今までは〈胸が分からないため〉何についても無知のままに、人間心でやって来た〈が、これは違う〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)

注)七三のおうたは、明治二十年陰暦正月二十六日の予言をされているおうたと言われています。
第三号つづき

03.068
このよふをはじめた神のしんぢつを といてきかるうそとをもうな

03.069
いまゝでもしんがくこふきあるけれど もとをしりたるものハないぞや

03.070
そのはづやどろうみなかのみちすがら しりたるものハないはづの事

03.071
これまでハこのよはじめてない事を たん/\といてきかす事なり

03.072
なにもかもない事はかりとくけれど これにまちごた事ハないぞや

訳)「この世を初めた神の真実〈の話を〉説いて聞かす。嘘と思うな。今までもしんがく(心学・神学)こふき(古記)〈の如き教理〉はあるが、元を知って〈教えて〉いるものはない。それもその筈で、泥海なかより〈初まって今日に至った人間〉の道すがら(道程)を知っている者はないのだから。これまでは、この世初めてから、ない事(知らないことを)を」だんだんと説いて聞かせる。何も彼もない事ばかり説くけれども、これに間違ったことはない〈みな真実である〉。(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)
昨日の記事に引き続き“いんねん”のお話をさせていただきたいと思います。

親神様は、子供可愛いゆえから、人間の心違いを直してやろうと、あえて身上に印しをつけて下さいます。
このお道につながり、その親神様の思召しに早く気づかせていただいた我々は、ほんとうにありがたいことなのだと思います。やはり、前生前々生において、このお道につなげていただけるという“白いんねん”があったからだと思います。
僕は、このお道に深くつながらせていただくのに四十年くらいかかりましたが、早くにお道につなげていただける方は、よほど良い“白いんねん”があるのだと思います。
しかしまた、いんねんの悪いものほど、このお道につながる人が多いとも 思われます。それは、なんとかして可愛い子供を救けたいとの親神様の深い思召しから、もうどこへ行っても救からないと思われる人が、いやがおうでもこのお道に引き寄せて下さるのです。
“いんねん”には、三つあるとお伺いしています。まず一つ目は、親神様が「人間を造って陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」と思召されて人間をお造りになられた“元のいんねん”、二つ目は、善き心づかいで人をたすけたり良い事を為した“白いんねん”、これを『徳』と言います。そして三つ目は、悪しき心づかいで悪いことを為した“悪いんねん”、これを「ほこり」と言います。

人間は最初は澄み切った清水のような心であったものが、だんだんと知恵がつき自分勝手な心をつかい出したことにより、“ほこり”が積み重ねられました。その“ほこり”が何生も積み重ねられてきたものが“悪いんねん”となっているのです。
しかし、すべての人間には、“悪いんねん”だけではなく、多かれ少なかれ“白いんねん”もあり、親神様の思召された“陽気ぐらし”に向かうための“元のいんねん”があるのです。


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