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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『世界から寄り来る処を見れば分かるやろう。何を持って出て来たでない。これでこそ心の持ち寄り。どれだけ財産あるとて、真似は出来ようまい。銘々心の理を以て寄り集まる理である。これだけ年限尽した理は、治めにゃなろうまい。悪風の理に混ぜられんよう、悪説に誘われんよう、悪理に繋がれんよう。三つの理いつ/\混られんよう。両手運んでも、両足運んでも、一つの理が治められん。道の理皆考え。道を通してある。年限一時の理を集めて、どういう処も連れ帰る。今に何処からどんな事情現われるやら分からん。疑い心一つ洗うよりない。遠く所より胸三寸磨くより外にあろうまい。』(M30.01.12)
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昨日、ある天理教関連の掲示板に投稿させていただきました記事ですが、ひじょうに重要なことだと思いますので、これを今日の記事とさせていただきたいと思います。

「なぜ?親神様は、人間。世界をおつくりになられたのでしょうか?」という質問に対して僕は、親神様は、『神人和樂の陽気ぐらしの世界』を建設するためにと答えさせていただきました。
すると今度は、「それではどうして、様々に苦しみ悩む人があるのだろうか?」というような内容の質問がありました。それに対して僕がお答えさせていただいたものです。


親神様は、『おふでさき』において、

12.088
月日にわどのよなものもわが子なり かわいばかりでみてハいれども

12.089
いまゝでハせかいぢううハ一れつに めゑ/\しやんをしてわいれども

12.090
なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので

12.091
これからハ月日たのみや一れつわ 心しいかりいれかゑてくれ

12.092
この心どふゆう事であるならば せかいたすける一ちよばかりを

12.093
このさきハせかいぢううハ一れつに よろづたがいにたすけするなら

と仰せられているように、人間を創造して『その人間が、陽気ぐらしをするのをみて、親子共々に楽しみたい』と思召されているのだと思いますが、人間にはたった一つだけ心の自由をお与えになられました。
親神様は、人間を創造されてから九億九万年は水中のすまい、陸上に上がり知恵を仕込まれて六千年、そして文字の仕込みから、天保九年まで三千九百九十九年と仰せになられています。
その間に、元々清水のように澄み切った人間の心(魂)が生まれ更わりを繰り返し、知恵がつき欲が出てくるにしたがって、泥水のような心(魂)になってしまい、それから約百七十年経っている現在においても、人間は“我が身思案”ばかりの心づかいが強いため、なかなか成人することができていない成人途上の状態にあるということなのだと僕は思案させていただいています。

それゆえに、人間の苦しみ悩みは、すべて“我が身うらみ”なのであるということになると思います。そして、それを解消するために天保九年に、親神様が教祖に入り込まれて解き明かされた教えが、『天理教のみ教え』なのであると僕は悟らせていただいています。

結局は、一個人の人間の苦しみ悩みや、国と国との争い、環境破壊、様々な地球上においての問題は、すべて人間一人一人の“我が身思案”、“我が身うらみ”が招いた姿なのであると思案させていただいています。

そして、親神様は、せっかく『神人和樂の陽気ぐらしの世界』を建設しようとされているのにも関わらず、人間自身が自らの“我が身思案”、“我が身うらみ”によって苦しみ悩んでいるのだ!!という結論になります。
『理の親』にならせていただくということは、おやさまの“ひながた”の道を万分の一でも通らせていただくという“心定め”をさせていただき、悩み苦しむ人々を“おたすけ”させていただく使命をお与えいただいたことだと、僕は認識させていただいています。

僕自身は、『理の親』さんに救けていただきました。
お道を通らせていただくには“道の案内人”が必須だと僕は思います。そして、それこそが『理の親』の役目であり勤めだと実感させていただいています。

良い親に当たるのも、悪い親に当たるのも、すべて自分自身の因縁次第だと思います。
また、同じ親であったとしても、ある人にとっては良い親、ある人にとっては悪い親となる場合もあり、子供の捉え方や悟り方で、まったく逆になってしまう場合もあると思います。

人間の肉体の産みの親にしても同じことであり、その子供によっては良い親とも、悪い親ともなってしまう場合があると思いますが、それと同じことで、『理の親』とは、《お道の信仰の上に産みおろしてくださった“親”》なのであると僕は悟らせていただいています。
そして、僕を教え導いて下さった『理の親』さんの心を引き継がせていただいて、“をや”のかわりをさせていただけるようなしっかりとした親として、親神様・教祖(おやさま)にお与えいただいた理の子を成人へと導かせていただきたいと心を定め、このお道を通らせていただいています。
《理の親》とは、親神様・教祖(おやさま)に救けていただいた人が、今度は、自分自身が“をや”のかわりとして悩み苦しむ人々を救け導く役目を与えていただいた人のことであります。
また自ずと救けさせていただく人のことは“理の子(子供)”ということになります。

これは、親だからえらいとか、子供は親の言いなりにならなければならない、などというものではなく、ただ先に救けられて悩み苦しむ人々を導くようになった人(親)とその人がお世話をさせていただくようになった人(子〔子供〕)という関係であり、親は親らしくしっかりと子供を導かせていただくことが、親神様・教祖への恩返しとしての道となり、一生懸命に勤めさせていただかなければなりません。

また、親となって子供を導く立場の人は、そのお与えいただいた子供をみて、しっかりと自分自身の“因縁の自覚”をさせていただかなければなりません。

これは、上下関係の親子という意味ではなく、お互いに救け合う姿であります。そして、お互いに拝みあう姿でもあり、これこそが『人を救けて我が身救かる』というお道における究極の姿(通り方)だと僕は思わせていただいています。
誤字訂正及び補完

03.147
二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす

03.148
高山のせきゝよきいてしんしつの 神のはなしをきいてしやんせ

03.149
にち/\に神のはなしをたん/\と きいてたのしめこふきなるぞや

第三号おわり

訳)〈明治七年〉二月二十二日の五ツ刻(午後八時頃)に話かける。“よろづいんねん”をみな説いて聞かせる〈と予告しておく〉。高山の説教を聞いて、この神の話を聞いて、〈比べて〉思案せよ。日々に神のする話を、だんだんと聞いて楽しんでいよ。これが“こふき”となるものである。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)

―――辻忠作が明治七年二月二十二日の夜の五ツ刻(午後八時)に参拝に来たが、それは、さらに一層の成人を願ううえから、昼間、激しい歯痛に知らせて、親神が手引きしたのである。そして、教祖より「よろづいんねん」の理、すなわち、人間創造の「元の理」の話から、辻忠作個人の“いんねん”の話まで、すべて説いて聞かせたのである(一四七)。
この親神の教える「よろづいんねん」の話と、高山といわれる神社・仏閣の神官・僧侶の説教とを比較した時、どちらが真実であるか、よく思案せよ。親神の話が真実であると納得できるだろう(一四八)。
信心というものは、日々に親神の真実話を聞き分けて、それを楽しみにして通ることが、末代にわたってたすかる台となるのである(一四九)―――。
辻忠作は、妹{くら}の精神の病をたすけられて熱心に信仰を始めましたが、家族の反対で頓挫し、そうするうちに{くら}の病が再発して、再び熱心さを取り戻した。と前に述べました。しかし、またもや信仰が途絶えていました。そして、数年経って、突然に歯が痛みだして、どうにもならなくなって教祖のもとを訪れた時に示されたのが、このお歌です。
「こふき」(一四九)とは、いついつまでも変わらずに語り伝えられていく、“たすけ”の台となる話ということでしょう。(「おふでさき拝読入門」矢持辰三著 天理教道友社刊より)

昨日の『おふでさき』の訳の「高山の説教を聞いて、この神の話を聞いて、〈比べて〉思案せよ。」のところの“この神”のところが、“この守”となってしまっていました。誤字をお詫びさせていただくとともに、また別の『おふでさき』の訳本から重要な部分を抜粋して追記させていただきました。m(_ _)m
第三号つづき

03.145
いまのみちほこりだらけであるからに ほふけをもちてそふぢふしたて

03.146
あとなるハみちハひろくでごもくなし いくたりなりとつれてとふれよ

03.147
二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす

03.148
高山のせきゝよきいてしんしつの 神のはなしをきいてしやんせ

03.149
にち/\に神のはなしをたん/\と きいてたのしめこふきなるぞや

訳)「今の道は埃だらけであるから、箒をもって掃除する。そのあとの道は、広々としてごもく(芥[チリ])もない。幾人でも連れて通るがよい。〈明治七年〉二月二十二日の五ツ刻(午後八時頃)に話かける。“よろづいんねん”をみな説いて聞かせる〈と予告しておく〉。高山の説教を聞いて、この守の話を聞いて、〈比べて〉思案せよ。日々に神のする話を、だんだんと聞いて楽しんでいよ。これが“こふき”となるものである。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第三号つづき

03.140
いまゝでハ高い山やとゆうたとて よふほくみへた事ハなけれど

03.141
このさきハ高山にてもたん/\と よふぼくみだすもよふするぞや

03.142
いちれつにはやくたすけるこのもよふ 上下ともに心いさめで

03.143
にち/\にせかいの心いさむなら ものゝりうけハみないさみでる

03.144
なにゝてもたすけ一ちよであるからに むほんねへをはやくきりたい

訳)「今までは高い山といっても、“よふぼく”が見えてないが、この先は高山にもだんだんと“よふぼく”を見出す段取りをする。一れつに〈世界中を〉早くたすける〈ためにだんだんと話して聞かしている〉このもよう(よふぼくによる布教伝道)〈によって〉、上下共に心をいさまして行く。〈この“たすけ”一条の道によって〉日々に〈少しずつでも〉世界の〈人々の〉心がいさんで来るなら、作物の成育も盛んになる。なんでも“たすけ”一条で〈世界中をたすけて〉行って、〈世界の人々の心の中にある〉謀叛の根を早く切りたい。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第三号つづき

03.128
一寸はなし神の心のせきこみハ よふぼくよせるもよふばかりを

03.129
たん/\とをふくたちきもあるけれど どれがよふほくなるしれまい

03.130
よふぼくも一寸の事でハないほどに をふくよふきがほしい事から

03.131
にち/\によふほくにてわていりする どこがあしきとさらにをもうな

03.132
をなじきもたん/\ていりするもあり そのまゝこかすきいもあるなり

03.133
いかなるのぢうよじざいのこのためし ほかなるとこでさらにせんぞや

03.134
いまゝでもためしとゆうてといたれど もふこのたびハためしをさめや

03.135
たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ

03.136
このたびハ神がをもていでゝるから よろづの事をみなをしへるで

03.137
めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん

03.138
しやんせよやまいとゆうてさらになし 神のみちをせいけんなるぞや

03.139
一寸したるめへのあしくもできものや のぼせいたみハ神のてびきや

訳)「ちょっと話〈するのでよく聞け〉。神の心の急込みは“よふぼく”を寄せる段取りである。〈今までにも〉だんだんと多くの立木があるけれど、どれが“よふぼく”であるか知れまい。“よふぼく”も少しぐらいではなく、多くの用材がほしいのだ。日々に“よふぼく”は“ていれ”をする。どこがわるいと思ってはならない。同じ〈ように見える〉木でも、だんだん手入れするものもあり、〈切り倒したまま〉横たえておくものもある。どのような自由自在(じゅうようじざい)〈のたすけも現わすところ〉のこの(今話題の“つとめ”にによる)試しは、ほかのところではしない。今までも試しと言って説いて来たけれど、もう〈今度の“かんろだい”の“つとめ”は〉試し納め(最後の試し)である。だんだんと何ごとについても《この世は神のからだ》である。これをよく思案してみよ。このたびは神が表へ出ているからよろづのこと(万事)を皆教える。めいめい(各自)の《身の内(体)は〈神の“かしもの”・人間にとっては〉“かりもの”》であることを知らなくては、ほか
のことは何もわからない〈ので、このことはまずしっかり心に理解して記憶せよ〉。思案せよ。病というものはない。神の“みちをせ”(道教え)“いけん”(意見)である。ちょっとした眼がわるいとか出来物とか、のぼせや痛みなどは、神の“てびき”(手引き)である。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第三号つづき

03.120
いまのみち上のまゝやとをもている 心ちがうで神のまゝなり

03.121
上たるハせかいぢううをまゝにする 神のざんねんこれをしらんか

03.122
これまでハよろづせかいハ上のまゝ もふこれからハもんくかハるぞ

03.123
このよふをはじめてからハなにもかも といてきかした事ハないので

03.124
上たるハせかいぢううをハがまゝに をもているのハ心ちかうで

03.125
高山にそだつる木もたにそこに そたつる木もみなをなじ事

03.126
にんけんハみな/\神のかしものや 神のぢうよふこれをしらんか

03.127
いちれつハみな/\わがみきをつけよ 神がなんどきとこへいくやら

訳)「今の道を、上のまま(自由)と思っているが、それは心違いである。〈この世は神が治めているので〉神のままである。上は世界中をままにする。これを“ざんねん”と思う神の心を知れ。これまでは万事世界は上のままであった。しかしもうこれからは文句が変わる(ままにできない)。この世を初(創)めてから〈のこと〉は何も彼も説いて聞かしたことはないので〈神が守護していることを知らず〉、上は世界中をわが儘に思って〈ままにして〉いるのは心違いである。高山に育つ木も谷底に育つ木もみな同じことである(木に変わりはない)。人間〈のからだ〉はみな神の“かしもの”である。神の自由(じゅうよう)〈であること〉を知れ。すべての人はみなわが身を気を付けていよ。神がなん時どこへ行く(働きに出る)かわからぬぞ。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)

注)高山に育つ木=身分の高い人々、谷底に育つ木=身分の低い人々、ということで、身分の高低には関係なく世界一列すべての人間は平等の魂であり、すべて神の子(子供)なのであるということです。
苦しみ悩みのすべての原因は自分自身にある!!

自分自身が前生前々生においてつかってきた心づかい(前生前々生において蒔いた種)が原因なのである!!
これが、『白いカラス』の真意だということを再認識(悟る)させていただきました。

おたすけさせていただきたい相手をいくら変えようとしてもだめ!!
相手の姿をみて、自分自身がその心づかいを“さんげ”し、“たんのう”させていただくことによって相手は神様が変えて下さる!!ということを悟らせていただきました。

今日も、低い、やさしい、素直な心(=誠真実)で通らせていただきましょう!!

ひろ


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