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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\身上一条尋ねる/\。身上理を尋ねるから一つの理もさしづしよ。どういうさしづ。難し事は一つも言わん。成程の理を諭そ。身上一つの理速やかなれば一つ、どれだけ理も一つの理。長らえて中一つの理、それ/\どういう事情であたぞ、日々思う/\。日々にあろ。人間という、だん/\話前々伝え置いたる処、身はかりもの心一つが我がの理。この事情分かれば、何かの事も分かる。めん/\一つ世上随分一つ皆一つ取り混ぜた。どういう第一思やん。一つ世界十分通る道という。十分蒔いた種、十分受け取る。幾重生まれ更わり/\、何度生まれ更わりの理、世上の理は生まれ更わりの理がある。幾何年何遍じゃ、めん/\一つの理が心に治め。生まれ更わり心治め。身上不足無きもの。難し事は一つも言わん。世界の理を同し一つの理。世界の理を心を治めれば、何にも案じる事は要らん。』(M22.9.16)
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『さあ/\身上一条尋ねるから諭すのには、身上一条の理を聞き分けるなら、何かの事も分かるであろう。人にも諭しても居るやろう。聞いても居るやろ。さあ/\分からんやあろうまい。神の子供。難儀さそう不自由さそうという親はあろうまい。身の内は神のかしもの・かりものの理を諭するには、心は我がもの。心通り神が働く。この理をよく聞き分け。前生いんねん分かろうまい。分からんから尋ねる/\。事情世上には皆々どんなものも映してある。この理を聞き分け。人間は生まれ更わり出更わり理聞き分けよ。さあ/\身上は余程大層である。さあ/\どうせにゃいかんこうせにゃいかんとは神は言わん。内々家内もこの理を聞き分けよ。身上無うては楽しみあろうまい。見んならんも前生いんねん。踏ん張らにゃなろうまい。救からにゃなろうまい。人を救けるという心、救けにゃならんが天の理、救かるも天の理。これだけ尽すのに何でと思う心出さずして、内々に誠の心が睦まじいという。この理を諭し置く。身上今一時どうとも無い。身上案じると案じの理が回る。さあさあ
内々睦まじいが第一という。』(M24.7.7)
『さあ/\しいかりと聞かねば分からんで。身の内の障りは、尋ねる処、今日はまあ、何でこのように急がしいやろうと思う日もあり、又、今日は何でやろうという日もある。又、聞き難くい事を聞かねばならん事もあり、又不自由な日もあり、又有難い日もあり、どのような道も皆々五十年の間の道を手本にしてくれねばならんで。今の難儀は末の楽しみやで。その心で、心を定めてくれねばならん。』(M20.5[陰暦])
『分教会順序これまでそも/\゛であったやろ。何か事情心に掛かったやろ。一時事情前一つ理はもう無くなった理、又改まりた理は、道順序の理。道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ。』(M32.8.28)
『さあ/\よう聞き分けねば分からんで。話続きも、よう聞き分け。これまで道というも判然ならん。又々一寸々々参りしょう/\思て居る。ほんに成程参り/\始め掛ける。講元一人、所々何か処、取り集め、親と称え親と言うは、子供育てるも、いかなる道を通る。親の心真実道を知らせば親と言う。ほんに言われる親と夫婦同じ事、真実知らせん。身の内同じ道にて神の道聞けども、話聞き、今一時何とも彼とも分からん。よう聞け。分からんでない。講社講元寄るは親元へ寄るのじゃで。罪口説言うはほこり。』(M20.4)
生まれたいっきの赤ちゃんは、お母さんやお父さん(親)がいなければ、決して一人では生きてはいけないだろうし、育つことはないだろうと思います。お乳を飲まし、おむつをかえ夜中にでも泣き出すとヨシヨシと言って抱き上げる。また、幼い子供は親の言動ややることなすことを見て育ってゆくもの、親が正しい心をつかい、その言動を手本としてちゃんとしたしつけをすることが重要となるのだと思います。

また、子供は“親”を選べないが、ちゃんとした前生の因縁の元に子供を授けていただくということで、本来はその神様からお与えいただいた子供をしっかりと成人へと導かせていただくのが“親”としてのつとめであるのだと思います。

またこれは、「お道の信仰の上」においても同様で、子供は、“親”が気に入らないからと言って、直接“をや”が預かって下さって育てて成人させて下さるということはありえないことなのだと思います。
そのために、正しい道を教え成人へと導く“をや”の代わりをさせていただく「お道の信仰の上」においての“親(理の親)”が必須となってくるのであります。
それで、神様が“をや”の代わりとして、魂の因縁の深い“理の親”という信仰の導き手(教え親)をお与え下さるのであります。

そして、自分が救けられて、今度は人様を導かせていただく“理の親”にならせていただいたとしても、決して偉そうにしたり高い心になってはならず、しっかりと“をや”の代わりをさせていただけるよう、自らの心を低くし、身を捨てて真剣に“理の子(子供)”を成人へと導かせていただかなくてはならないと思わせていただいています。

ひろ

『身を捨ててこそ、立つ瀬がある』

これは、愛町分教会初代会長関根豊松先生のお言葉ですが、これは、「我が身どうなっても、人様を救けずにはおかれない!!」という“たすけ一条”の強い強い精神の持ち方をお教え下さったものだと悟らせていただいています。

またこれは、『貧に落ち切れ』と親神様が教祖(おやさま)におっしゃられたお言葉と同様の意味があるものと悟らせていただいています。

『貧に落ち切れ』とは、ただ「あるものをすべて施して、貧しい人々の心を知りなさい」という意味だけではなく、「我が身を捨てて低い低い心になりなさい」という意味も含まれているものと思案させていただいています。

つまり、『身を捨ててこそ』ということは、「我が身を捨て切って低い低い優しい思いやりの深い心になって、どうでもこうでも苦しみ悩んでいる人々を救けずにはおられない!!」という精神を持つことが大切なのだということを教えて下さっているように思います。

ひろ
『………これまで艱難の道、今の道互いの道。辛い者もあれば、陽気な者もある。神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めん/\勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。』(M30.12.11)
『人間というは、一代と思うから頼り無い。理は末代の理。これをよう聞き分けて、しっかり治めてくれ。尽した理は、将来末代の理に受け取りてある。理消えやせん程に。理は十分の理である。これを楽しんで、一代の理に悔しいと思うやない。これをよう聞き分け。人間というは、早い者もあれば遅い者もある。どんな者もある。これを聞き分けて心に満足せい。“たんのう”が第一である。これを前生“いんねん”の“さんげ”と言う。』(M37.12.31)
『おふでさき』が第四号まで一段落しましたので、今日は、“理の親子”について少し書かせていただきたいと思います。

人間は、夫婦となり子供を授けていただいて、立派に成人させることが、神様からお与えいただいている役目だと思います。
そして、お道の信仰の上においての“親”にならせていただこうとするならば、なおさら真実の親心をもって“をや”の代わりをさせていただいて“子供”を育てさせていただかなければならないと思わせていただいています。

僕が、現在お与えいただいています“理の子”は、精神の身上ゆえに、心が毎日、あるいは朝昼晩、時には時間単位で、ころころと変化してしまうために、なかなか“おたすけ”の現状を書かせていただくことが難しいのですが、ここで、少しだけ“理の子”のことをお話させていただきたいと思います。

僕は、“理の子”にどんなむちゃなことを言われても、決して腹を立てないようにさせていただいています。
僕には、“はらだち”のほこりがうずたかく積もり重なっており、すぐに短気や癇癪を起こしてしまう人間でした。(^_^;)
しかし、“理の子”をお与えいただいてから、まったく腹が立たないようになりました。
どう考えても普通だったらキレてしまうようなことであったとしても、「ああ、これは僕自身の因縁を見せていただいているんだ、しっかり“たんのう”させていただこう。」と思うとぜんぜん腹が立たなくなりました。(というよりも神様がして下さいました。)

このことは、“理の子”自身も認めてくれていて、「先生(と呼んで下さっています)、今までたいがいのわがままやむちゃくちゃなことを言っても腹を立てられないようになりましたね!」と言ってくれています。
実は、彼とは30年来の付き合いで、昔の僕のことをよく知っている方なのです。

そして、最近、「僕は、はじめて有神論者になりました!!実は、つい最近までは、がちがちの無神論者だったんですよ!!」と言ってくれています。
「なんで?」と僕が聞くと、「四年間も痛くて痛くて医者に行って水を抜きまくってもらっていた膝の痛みが、ウソのように治りました。」と…。

また、以前も少しだけ書かせていただいていましたが、20kmくらい離れている家から、道も知らないのに、また、雨がざざぶりでメガネもくもってしまいまともに走れるような状況じゃなかったところを、危ないからと制止させていただいている僕の言葉をまったく聞かずに無理をおし通して、バイクで天理まで来たことがあります。
これは、後で彼が教えてくれたことなのですが、やっとのことで、天理に着いて○○の詰所はどこですか?と聞きに入ったところが○○の詰所だったと言うのです。

また、つい先日は、勝手をして月次祭にずいぶん遅れて来られのですが、今度は「確かに左両輪が脱輪して川にはまったと思ったのに、車が宙に浮いてるんですよ!!あんな不思議なことはありません!!」と言っていました。

「そういうことなどがあったので、僕は神様を信じないわけにはまいりませんよ!!」って言ってくれています。
僕も半信半疑でしたが、彼がそういうのだから間違いないのでしょう!!

“よくとこうまん”の狂った心が、おぢばに教会にと、どうしてなりとも帰りたいという善の心に一途(一条心〔ひとすじごころ〕)になったがゆえに、親神様・教祖(おやさま)は、ほんとうに結構なご守護(奇跡)を見せて下さっているのだと思います。なんとかして彼を救けるために。そして、神様の目には何かが見えているのではないでしょうか!?

また、本来ならば、単独布教に出て我が身を捨て切って艱難辛苦の道を通らせていただかなければならないところを、たった一人ではありますが、世間や親戚はいうまでもなく、親兄弟とも諍いが絶えず、ほとんどもう見放されていたような難しい気の病の“理の子”をお与えいただき、人間力ではどうしようもない危ない中を暖かい“をや”心をもって何度も何度も救けて下さり、気長に導いて下さっている親神様・教祖(おやさま)に、ほんとうに心から感謝させていただいています。


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