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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\/\身の処一寸心得んと分からん。分からんと尋ねる。しいかり聞き分けば、分からんでない。身の処かりもの処、理を聞き分けば、理を弁え。めん/\癒る癒らんという処、それ世界皆同し兄弟や。神はをや、世界は皆かしもの。救けたいは一条や。多くの中/\、心通りを皆現わしてある。前生や/\、前生のいんねんや。理を聞き分け。生まれ更わり/\、前生のいんねんや。心通りを皆映してある。この理をよう聞き分け。めん/\皆同し兄弟や。めん/\も同し兄弟なら、めん/\もあんな身ならと思て成程と心治めて、たんのうをせねばならん。成程の道を知らして置こと。』(M20)
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ギャアテイギャアテイ
ハラギャアテイ
ハラソウギャアテイ
ボーディソワカ

は、

ありがとうございます
ありがとうございます
ほんとうに
ありがとうございます
ほんとうにほんとうに
ありがとうございます
悟りを成就させていただきました

という意味なのではないかと思います。

つまり、この宇宙は神様によって完全円満に造られていて、何一つ不足なものはない。それゆえに、すべてに満足させていただくということが神様に御礼を申し上げるということになるのあると思います。

神様のお言葉に、

『この世は理でせめたる世界なり』

『成って来る理が天の理』

『たんのうは真の心の誠』

というのがあります。

即ち、この世のすべては因縁によって生じ、因縁によって様々な現象が生じているとうことであります。
いかなる悩み苦しみが生じて来ても、自分自身が前生前々生、あるいは今生において蒔いて来た種通りの現象が起こるべくして生じて来ているのだけなのだから、しっかりと自分自身の因縁を自覚させていただいて、成って来る理(生じて来るいかなる現象でさえも)を素直にまるごと受け入れさせていただいて、《たんのう》(=十分満足する)させていただいて決して不足や愚痴をいわずに感謝と喜びの心で日々を勇んで通らせていただくことが大切なことだということを教えて下さっているように思います。
そして、少しでも人様に喜んでいただけるようにはたらかさせていただき、自分自身が太陽のような存在にならせていただくことこそが、《陽気ぐらし》の実践なのだということを深く悟らせていただくことができたように思います。
ほんとうに、心から感謝させていただいています。ほんとうにほんとうに、ありがとうございました!!!(*⌒▽⌒*)

ひろ
05.009
せかいぢうどこのものとハゆハんでな 心のほこりみにさハりつく

05.010
みのうちのなやむ事をばしやんして 神にもたれる心しやんせ

05.011
どのよふなむつかし事とゆうたとて 神のぢうよふはやくみせたい

05.012
いまゝでハ神のぢうよふしんぢつを しりたるものさらにないので

05.013
これからハいかなむつかしやまいでも 心したいになをらんでなし

05.014
しんぢつの心を神がうけとれば いかなぢうよふしてみせるてな

05.015
こらほどの神のしんぢつこのはなし そばなるものハはやくさとれよ

05.016
これさいかはやくさとりがついたなら なにゝついてもみなこのどふり

訳)「世界中({うち}も{せかい}も)どこの者と〈いう区別は〉言わない。〈誰でも〉心の{ほこり}が身に障りとなる。〈それ故〉身の内(体)の悩むところ(病気)を思案して〈{ほこり}の心違いを{さんげ}し〉神に{もたれる}心〈になるよう〉思案せよ。〈そうしたら自由自在のたすけをするので〉どんなに〈病が〉難しい(重い)と言っても、神の自由自在のたすけを早く見せてやりたい。今までは、神の自由自在という真実を知っている者は全く居ないので〈誰も本当に思案をしていなかった〉。これからはどんなに難しい病でも、心次第で直らぬということはない。真実の心を神が受けとれば、どんな自由〈自在のたすけ〉もしてみせる。これほどの神の真実の心からするこの話を、{そば}の者は早く悟れ。これさえ悟りが付けば〈神は自由自在のたすけをして見せるので〉、何についてもこれと同じ道理である。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
05.001
いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど あとさきしれた事ハあるまい

05.002
このたびハさきなる事を此よから しらしてをくでみにさハりみよ

05.003
このよふハいかほどハがみをもふても 神のりいふくこれハかなハん

05.004
めへ/\にハがみしやんハいらんもの 神がそれ/\みわけするぞや

05.005
一やしきをなじくらしているうちに 神もほとけもあるとをもへよ

05.006
これをみていかなものでもとくしんせ 善とあくとをわけてみせるで

05.007
このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまい

05.008
をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうで

訳)「今までは牛馬〈に堕ちる〉ということは、時々聞いていても、あと先(過去と将来)が〈はっきり具体的に〉知られることはあるまい。このたびは先なること(来世)をこの世(今生)からしらせるから、身の障り(病気)によってこれを見て〈よく思案せよ〉。この世はどんなにわが身のことを思っても、〈その通り方が〉神の立腹〈となるようなもの〉では、これは思い通りにはならない。めいめい(個人々々)にわが身思案は要らない。神がそれぞれ〈その者を〉見分ける。一屋敷〈の中に〉同じようにくらしていて、〈“神も仏もない”と思ってわが身勝手な通り方をしても〉“神も仏もある”のだということを考えよ。〈神は立腹の{かやし}をするので〉これ({かやし})をみて、どんな者でも得心せよ。〈神は〉善と悪とを分かるように〈必ず〉する。この話を一れつは思案せよ。〈一人として〉同じ心ではあるまい。親子でも夫婦でも、兄弟姉妹の仲でも、みな一人ひとり心は違う。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
昨日は、全教一斉ひのきしんデーに参加させていただきました。ひじょうによいお天気のご守護をいただきました。

なんだかこの4月29日という日は、ひじょうに不思議な有り難い日です。
昨年は、真柱様にお会いし一緒に写真を撮っていただきましたが、今年は、1ヶ月近く反発していて縁が切れかけていた理の子から連絡があり、ひのきしんにも来てくれて“さんげ”をしてくれました。
ほんとうにほんとうに有り難い(奇跡)の日でした!!

ひろ
人間は神(宇宙の大生命)の子で、神様によって造られ、地球上において魂の成人を目指し生まれ更わりを続けさせていただいている生命体なのだと思います。

また、人間の身体は神様からお借りしているもので、神様の身体を大宇宙だとすれば、人間の身体そのものが小宇宙であるとも言えると思います。

そして、無我の境地というのは、自分自身の欲を一切捨てきった心であると思います。
またその上に、我が身はどうなってもかまわないと自分自身を捨てきって、苦しみ悩んでいる人を救けることに喜びを感得できる心こそが、天(神、宇宙)に認めていただける《誠真実》の心であると悟らせていただいています。

そして、たとえどんな苦しい状態におかれたとしても、どんな病気になったとしても、どんな事故にあったとしても、決して不足をせずに十分に満足させていただき感謝させていただいて通らせていただくことが、真の“たんのう”なのだということをはっきりと悟らせていただきました。

ひろ
第八章『道すがら』 つづき

 この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶け合いの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。

  このさきハせかいぢううハ一れつに
  よろづたがいにたすけするなら        一二 93
  月日にもその心をばうけとりて
  どんなたすけもするとをもゑよ        一二 94

 かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。その日々は、人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。
 誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程。

 誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

  しんちつに心にまことあるならば
  どんなたすけもちがう事なし         一三 71

 誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが一つの理。 (明治二三・四・一七)

 自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることなく、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。そこに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじいという一つの理が治り、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多くの人々の心の躍動を呼び起す。

  だん/\になにかの事もみへてくる
  いかなるみちもみなたのしめよ         四 22

第八章 おわり
第八章『道すがら』 つづき

  ふうふそろうてひのきしん
  これがだいゝちものだねや          一一下り目 2

 親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

  いつ/\までもつちもちや
  まだあるならバわしもゆこ          一一下り目 5

 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそのままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。
 かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

  いまゝでハせかいぢううハ一れつに
  めゑ/\しやんをしてわいれども       一二 89
  なさけないとのよにしやんしたとても
  人をたすける心ないので           一二 90
  これからハ月日たのみや一れつわ
  心しいかりいれかゑてくれ          一二 91
  この心どふゆう事であるならば
  せかいたすける一ちよばかりを        一二 92

つづく
第八章『道すがら』つづき

 日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

  なんでもこれからひとすぢに
  かみにもたれてゆきまする           三下り目 7
  やむほどつらいことハない
  わしもこれからひのきしん           三下り目 8

 身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

  よくをわすれてひのきしん
  これがだいゝちこえとなる          一一下り目 4

 ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。

  みれバせかいがだん/\と
  もつこになうてひのきしん          一一下り目 3
  なにかめづらしつちもちや
  これがきしんとなるならバ          一一下り目 7

 少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持ひのきしんをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れぬ味がわかる。
 ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。
 ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

つづく
第八章『道すがら』
 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、《かしものの理》もよく胸に治り、心の“ほこり”も次第にぬぐわれ、“いんねん”の悟りもついたなら、ものの観方が変ってくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活するのが、道の子の歩みである。この心の治め方を《たんのう》と教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成って来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえって喜びに転じてくる。かくて、真に《たんのう》の心が治れば、前生の“いんねん”は納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。
 《たんのう》は、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟って、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが“節”となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。

つづく


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