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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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それが故に、『空』という意味において、物質・物体、感じる(感受する)こと、想うこと、行動すること、認識するということなどについては、すべて〈一定〉したものは何一つとして無い。
また、眼(見る=色)、耳(聞く=声[ショウ])、鼻(においをかぐ=香)、舌(味わう=味)、身(身体で感じる=触[ショク])、意(心で思う=法)においても、すべて〈一定〉したものは何一つ無い。
故に、〈一定〉した眼界(目に見える世界)も無く意識界(心の世界)も無い。また、無明(真実がわからないこと)も無く、そしてまた無明が尽きるということも無い。また、老死という〈一定〉した状態も無く、そしてまた老死が尽きるということも無い。
そして、苦集滅道(=四諦〔お釈迦様がお説きになられた悟りを得るための一つの修行方法〕)も無い。また、知る(智)ということも無く、得るということも無い。宇宙は、全く何も得るところのものが無く、すべては完全円満に成り立っている(完成している)のである。
菩薩(ボダイサッタ)は般若波羅密多の智恵によるが故に、心にこだわり(執着)が無く、こだわり(執着)が無いがためにまったく恐怖というものが無い。そして、一切の悩みや苦しみ、迷いや不安というものが無くなり、涅槃という無上の悟りの極地に到達されたのである。
そして、三世の諸佛は、般若波羅密多によるが故に無上の悟り(アノクタラサンミャクサンボダイ)を得られたのである。故に知るべし、般若波羅密多は、大神呪であり、大明呪であり、無上呪であり、この上なき有り難い呪文なのである。
これは、すべての悩み苦しみを除くものであり、これは嘘偽りのない真実なのである。
お釈迦様は、般若波羅密多の呪文を説いてもうされた。
『ギャアテイギャアテイ、ハラギャアテイ、ハラソウギャアテイ(ありがとうございます、ありがとうございます。真にありがとうございます。真に真にありがとうございます。)ボディソワカ (悟りを成就させていただくことができました。真に心の底から感謝させていただきます。)』
般若心経。
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観音様(観自在菩薩)が、深く悟りの行(般若波羅密多)をなされていた時、すべてのものは『空』であるとはっきりとお悟りになられて、すべての苦しみや悩みを解き放つことに成功なされた。

我が弟子たち(舎利子)よ、色は『空』と別のものではなく、『空』は色と別のものではない。物質・物体は、刹那刹那(一瞬一瞬)に変化している波動体でありエネルギー体なのである。そして、『あるがまま』の姿が『空』の本質なのである。
そして、感じる(感受する)ことや想うこと、行動すること、認識するということなどもすべて同じく『空』なのである。
我が弟子たち(舎利子)よ、故にこの宇宙のすべてのものは『空』という“相”をもっている(波動体でありエネルギー体であるが故に、ずっとそのままだという〈一定〉したものは何一つとして無い)。故に宇宙のすべてのものは、あるがままに存在し刹那刹那に流動している波動体・エネルギー体なのである。
故に、生じるということも無く滅するということも無い、また汚れる(垢)ということも無く清らか(浄)になるということも無い。また、増えるということも無く減るということも無い。

つづく
 かくも明確に思召を承りながら、直につとめにとりかかれなかつたのは、徹し切れない人間心のはかなさとはいえ、教祖の身にふりかかる御苦労を、気遣うたからである。
 その年も暮れ、明けて明治二十年陰暦正月二十五日にいたつて、気分甚く勝れられず、どうしたことかと思召を伺えば、

 さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。

との仰せであつた。真意を解しかねた一同が、扉を開く方が陽気でよかろうとの思いから、扉を開いてろくぢにならし下されたいと申上げると、

 一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。

と仰せられた。
 明くれば二十六日、教を開かれた元一日の縁の日であり、しかも、つとめを急き込まれることが、極めて急であるので、今は、最早や躊躇している場合でないと、一同深く心に決して、万一に備える準備を整え、常になく鳴物までもいれて、つとめにかかつた。
 教祖は、休息所にやすまれながら、この陽気なかぐらづとめの音を聞かれ、いとも満足げに見うけられたが、北枕で西向のまま、静かに眠りにはいられた。齢、正に九十歳。
 教祖は、現身の寿命を二十五年縮めて、姿をかくされたが、魂は永久に元のやしきに留り、存命のまま、一れつ子供の成人を守護されている。

  にんけんをはじめたをやがも一にん
  どこにあるならたつねいてみよ         八 75

(天理教教典第五章『ひながた』より)
 かくて過ぎゆくうちに、明治十九年陰暦十二月八日、教祖の身に異状がうかがわれた。この時、「これは世界の動くしるしや」と仰せになつたが、人々は、どうした親神の思召であろうかと、憂慮のうちに種々と協議を重ね、心の練合いに日を過した。そして、一同の協議に上つた問題で、思案に余る困難な事情を悉く披瀝して、十数度に亙り、繰り返し繰り返し、押しての願を以て理を伺つた。これに対して示された思召は、常に一貫して、たすけづとめの急き込みで、

 さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。

と、厳しい言葉で、のつぴきならぬ重大時機の迫つている事を暗示された。そして又、

 心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。

と、己が身上を台として、一同の決心を促し、

 さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは火、水、風。
 さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。

とて、胸のおき処を諭された。

つづく
 更に、筆をとつて、たすけづとめのしんである人間宿し込みのぢばと、かんろだいの理を明かし、つとめの人衆について教え、なお、証拠まもりや、いき・てをどりのさづけを渡すなど、たすけ一条の道を示された。
 かかる中にも、厳寒酷暑を問わず、十数度に余る獄舎への御苦労が続いたが、聊かもこれを意にかけず、ひたすら、疑い深く理解の鈍い人心を教化しようと、日夜、手を尽し心を砕き、或は温かく或は鋭く、折にふれ、人に応じて導かれた。
 かように行き届いた導きによつて、教は、大和はもとより、五畿内から関東、東海に伸び、山陽、四国に及んだ。かくて、教祖を慕う白熱の信仰は、人々の足をぢばへぢばへと運ばせたが、なおも、教祖は、親神の思召のまにまに、終始、かぐらづとめを急き込まれた。
 しかし、迫害は歳を追うて激しさを加え、つとめすることは、直に、教祖の獄舎への御苦労となつたが、教祖は、何処においでになつても、平常と少しも変られないばかりか、これを、却つて、表に出るとか、働きに行くとか仰せられて、迎えの役人を、やさしく労われた。
 かかる態度によつて仕込みを受けた人々は、このひながたを慕うて、たすけ一条の上には、我が身どうなつてもと、勇み立つたが、高齢の教祖に、これ以上の御苦労をかけるには忍びなかつた。

つづく
 月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過されたが、やがて、をびや許しによつて示された珍しいたすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、これらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたことは数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治ではなかつた。盲人もその場で眼を開き、気の狂うた人も、すきやかに正気に復した。
 かくて、輝かしい道の黎明は訪れたが、それは又同時に、新な苦難への門出でもあつた。嫉妬、猜疑、無理解から起る弁難攻撃、或は又、白刃を抜いての乱暴狼藉などが、それであつた。かかる煩わしい生活に明け暮れされたが、教祖は、益々心勇み、陽気なかぐらづとめを教え、てをどりの手をつけられた。まことに、そこには、過去三十年に亙つてなめられた苦難の陰影はなく、又、白刃の下をくぐられた酷しい日々の片影さえも窺えない。ただ、一れつの子に、親神の胸のうちを知らせよう、との親心あるばかりである。

つづく
 或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾つて、嬉々としているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか着更さえもなくて、半分壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏になつても吊るに蚊帳なく、冬は冬とて吹きさらしのあばら屋に、あちらの枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、点す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこともある。
 十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。

つづく
 教祖は、口や筆で親神の教を説き明かされると共に、身を以てこれを示された。この道すがらこそ、万人のひながたである。
 教祖は、寛政十年四月十八日、前川半七正信の長女として生れ、名をみきと申される。
 幼少の頃から、慈悲と同情の心に篤く、又、深く道を求め、世塵を脱けて、生涯を信仰に捧げたい、と熱願されたが、奇しきいんねんの理によつて、大和国山辺郡庄屋敷なる、中山氏という元のやしきに迎えられ、善兵衞の妻となられた。
 以来、益々信心の道に心を磨かれると共に、人の妻として、忠実やかに夫に従い、両親に仕え、家人をいたわり、篤く隣人に交り、又、家業に精を出された。かくて、慈悲と同情の天禀は、愈々深められ、高められて、よく怠者を感化し、盗人を教化されたばかりでなく、自分を無きものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化せられた。又、預つた乳児が病んだ時には、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、命乞をして、瀕死の児を救われた。
 天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以て、月日のやしろと召されてからは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家財を傾けて、赤貧のどん底へ落ち切る道を急がれた。
 この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合を越えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。
 このように、常人の及ばぬ信念は、却つて人々の冷笑を呼び、離反を招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で食べるに米のない日々を過された。父なき後、一家の戸主となつた秀司は、青物や柴の商によつて、日々の生計をはかつた。しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀を見ては、やつと手にした米を、何の惜気もなく施された。

つづく
 しかし、人間心のはかなさは、折角、てびきを頂いて、心を定めても、時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行をしたりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。

 神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了う。(明治三一・五・九)

と示されている所以である。故に、

日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知らさにゃならん。 (明治二三・七・七)

と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。この篤い親心を悟つて、益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂ける。
 かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。
 陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。

  しやんして心さためてついてこい
  すゑハたのもしみちがあるぞや         五 24

(天理教教典第六章『てびき』より)
 親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇に教えられている。
 およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。子の行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有難さが身にしみる。
 ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の理も見せられる。親神は、それを待ちわびておられる。

  しんぢつに心さだめてねがうなら
  ちうよぢざいにいまのまあにも         七 43
  いまゝでハとんな心でいたるとも
  いちやのまにも心いれかゑ          一七 14
  しんぢつに心すきやかいれかゑば
  それも月日がすぐにうけとる         一七 15

つづく


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