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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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 教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」と、仰せられた。

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たった一粒ずつの“誠真実の心の種”であっても、毎日毎日、こつこつと蒔き続けてゆくことが大切なことなのだということをもお教えいただいているように思います。

ひろ
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 明治五年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。お居間へ朝の御挨拶に伺うた市兵衞、ハルの夫婦に、教祖は、「あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ているが、今日からは、普段着のままにしなされ。その方が、あんた達も気楽でええやろ。」と、仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、「今日は、麻と絹と木綿の話をしよう。」と、仰せになって、「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれ
までや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。
 絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。
 そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで。」と、お仕込み下された。以後、市兵衞夫婦は、心に木綿の二字を刻み込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という。
 大和国仁興村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。盆踊りの頃ともなれば、長滝、苣原、笠などと、近在の村々までも出かけて行って、音頭櫓の上に立った。
 明治四年、十九才の時、声の壁を破らなければ本当の声は出ない、と聞き、夜、横川の滝で、「コーリャ コリャ コリャ」と、大声を張り上げた。
 昼は田で働いた上のことであったので、マムシの黒焼と黒豆と胡麻を、すって練ったものをなめて、精をつけながら頑張った。すると、三晩目のこと、突然目が見えなくなってしまった。ソコヒになったのである。
 長谷の観音へも跣足詣りの願をかけたが、一向利やくはなかった。それで、付添いの母親しかが、「足許へ来た白い鶏さえ見えぬのか。」と、歎き悲しんだ。こうして三ヵ月余も経った時、にをいがかかった。「庄屋敷に、どんな病気でも救けて下さる神さんが出来たそうな。そんなぐらい直ぐに救けて下さるわ。」という事である。
 それで、早速おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いたところ、教祖は、ハッタイ粉の御供を三服下され、「よう帰って来たなあ。あんた、目が見えなんだら、この世暗がり同様や。神さんの仰っしゃる通りにさしてもろたら、きっと救けて下さるで。」と、仰せになった。彦太郎は、「このままで越すことかないません。治して下さるのでしたら、どんな事でもさしてもらいます。」とお答えした。すると。教祖は、「それやったら、一生、世界へ働かんと、神さんのお伴さしてもろうて、人救けに歩きなされ。」と、仰せられた。「そんなら、そうさしてもらいます。」と彦太郎の答が、口から出るか出ないかのうちに、目が開き、日ならずして全快した。その喜びに、彦太郎は、日夜熱心に、にをいがけ・おたすけに励んだ。それから八十七才の晩年に到るまで、眼鏡なしで細かい字が読めるよう、お救け頂いたのである。


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僕は、16才から約二年間天理教を信仰させていただいていましたが、事情があり天理教わ離れて長年(約25年くらい)長谷の観音様を信仰させていただいていましたが、これを読んでびっくりしました!!
様々なことを体験するために他の宗教のことを勉強させていただいていただいていたようですが、時旬がきて長谷の観音様が再び天理教に引き寄せて下さったのだなあというふうに思っています。

ひろ
 かくて、教祖は、口に、筆に、又、ひながたによつて、種々と手を尽し、心を配つて教え導き、陽気ぐらしへのたすけ一条の道をはじめられた。更に、深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里ぢばに名附け、又、一れつのたすけを急き込む上から、姿をかくして、存命のまま、恆に、元のやしきに留り、扉を開いて、日夜をわかたず守護され、一れつ子供の上に、尽きぬ親心をそそがれている。
 まことに、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。

 にんけんをはじめたしたるこのをやハ
 そんめゑでいるこれがまことや         八 37


おわり
 更に又、

 いまゝでハ月日とゆうてといたれど
 もふけふからハなまいかゑるで        一四 29

とて、それから後は、をやという言葉で、親神を表し、

 にち/\にをやのしやんとゆうものわ
 たすけるもよふばかりをもてる        一四 35

と仰せられた。人間の我が子を慈しみ育てる親心によせて、親神は、ただに、神と尊び月日と仰ぐばかりでなく、喜びも悲しみもそのままに打ち明け、すがることの出来る親身の親であると教えられた。そして、一層切実に、親神への親しみの情を与えると共に、月日のやしろたる教祖こそ、まことに一れつ人間の親である、との信頼と喜悦の心を、たかめるように導かれた。
 このように、明かに、鮮かに、親神を信じることが出来るよう導かれたのであるが、なお、胸のわからぬ人々の心ない反対や、世間からのとめ立てが絶えず、それ故に、ふりかかる教祖の御苦労を思うては、時としてはためらい、時としてはまどう者もあつた。教祖は、これをもどかしく思い、ざんねん、りつぷくなどの言葉で厳しく急き込む半面、

 こらほどにさねんつもりてあるけれど
 心しだいにみなたすけるで          一五 16

 いかほどにさねんつもりてあるとても
 ふんばりきりてはたらきをする        一五 17

などと、温かい親心を宣べて、常に、子供達の心の成人の上に、心を配られた。

つづく
 更に又、陽気ぐらしの世界の建設を普請にたとえては、これに与る人達を、しんばしら、とうりやう、よふぼくなどと称んで、その持場々々の役割を示すなど、人々が容易に理解して、早く心の成人をするようにと心を尽された。
 このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教えると共に、いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、親神を神といい、次に月日と称え、更にをやと仰せられるなど、成人に応じ、言葉をかえて仕込まれた。
 即ち、神というては、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神などと、言葉をそえて親神の理を明かし、或は、

 たすけでもをかみきとふでいくてなし
 うかがいたてゝいくでなけれど         三 45

と仰せられ、神というも、これまでありきたりの拝み祈祷の神でなく、この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護している真実の神であると教えられた。
 次いで、親神を月日と称え、目のあたり天に仰ぐあの月日こそ、親神の天にての姿であると眼に示して教え、世界を隈なく照し、温みと潤いとを以て、夜となく昼となく、万物を育てる守護を説き聽かせて、一層の親しみと恵とを感じさせるよう導かれた。それと共に、

 いまゝでも月日のやしろしいかりと
 もろてあれどもいづみいたなり         六 59

 このあかいきものをなんとをもている
 なかに月日がこもりいるそや          六 63

とて、赤衣を召されたのも、教祖が月日のやしろにおわす真実を、眼に示して納得させようとの思召からである。ここに、月日親神に対する信仰と、月日のやしろたる教祖への敬慕の心とが、次第に一つとなり、教祖の言葉こそ親神の声である、との信念を堅めるようになされた。

つづく
そして、何人にも親しみ易く、覚え易いようにと、歌によせてものされたばかりでなく、屡々、譬喩を用いて理を説かれたのも、深い親神の思召を うなずき易く、理解し易いように、との親心からである。即ち、

 このさきハみちにたとへてはなしする
 どこの事ともさらにゆハんで          一 46

 やまさかやいばらぐろふもがけみちも
 つるぎのなかもとふりぬけたら         一 47

 まだみへるひのなかもありふちなかも
 それをこしたらほそいみちあり         一 48

と、神一条の道を進む者の道すがらを、山坂や、茨の畔などにたとえて、この道は、一時はいかに難渋なものであろうとも、一すじに親神にもたれて通り切るならば、段々、道は開けて、細道となり、遂には、たのもしい往還道に出られると、希望と楽しみとを与えて、励まされた。そして、自ら真先にかかる中を勇んで通り、陽気ぐらしのひながたを示された。
 又、人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁つているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違いのほこりを、絶えず掃除するようにと諭された。

つづく
 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、親神が教祖をやしろとして、じきじき表に現れている証拠として、よろづたすけの道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。

 更に、教祖は、

 このよふハりいでせめたるせかいなり
 なにかよろづを歌のりでせめ          一 21

 せめるとててざしするでハないほどに
 くちでもゆハんふでさきのせめ         一 22

 なにもかもちがハん事ハよけれども
 ちがいあるなら歌でしらする          一 23

とて、親神の思召を伝えられ、

 だん/\とふてにしらしてあるほどに
 はやく心にさとりとるよふ           四 72

と、後々繰り返し繰り返し思案させるよう、心を配られた。この事は、後日、

 これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに
知らし置いた。(明治三七・八・二三)

と仰せになつたように、おふでさきは、耳に聽くだけでは、とかく忘れがちになり易い人々の上を思い、筆に誌して知らされた親神の教である。

つづく
 いまなるの月日のをもう事なるわ
 くちわにんけん心月日や           一二 67

 しかときけくちハ月日がみなかりて
 心ハ月日みなかしている           一二 68

 教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違つた人と罵つた。
 かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかつたとはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得させずしては、いつまでも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めない。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々の身にもなつて、説き聽かせ、或は筆に誌し、又は、親神の自由自在の働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導かれた。

つづく
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。
 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。

 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから         一  1

 そのはづやといてきかした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや         一  2

 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする         一  3

 世界中の人間は、我が身思案に頼つて、心の闇路にさまようている。
それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これをあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その胸のうちを、いさい説き聽かされる。

つづく


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