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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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 摂津国安立村に、「種市」という屋号で花の種を売って歩く前田藤助、タツという夫婦があった。二人の間には、次々と子供が出来た。もう、これぐらいで結構と思っていると、慶応元年、また子供が生まれることになった。それで、タツは、大和国に、願うと子供をおろして下さる神様があると聞いて、大和へ来た。しかし、そこへは行かず、不思議なお導きで、庄屋敷村へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、「あんたは、種市さんや。あんたは、種を蒔くのやで。」と、仰せになった。タツは、「種を蒔くとは、どうするのですか。」と、尋ねた。すると、教祖は、「種を蒔くというのは、あちこち歩いて、天理王の話をして廻わる
のやで。」と、お教えになった。更に、お腹の子供について、「子供はおろしてはならんで。今年生まれる子は、男や。あんたの家の後取りや。」と、仰せられた。このお言葉が胸にこたえて、タツは、子供をおろすことは思いとどまった。のみならず、夫の藤助にも話をして、それからは、夫婦ともおぢばへ帰り、教祖から度々お仕込み頂いた。子供は、その年六月十八日安産させて頂き、藤次郎と名付けた。
 こうして、二人は、花の種を売りながら、天理王命の神名を人々の胸に伝えて廻わった。そして、病人があると、二人のうち一人が、おぢばへ帰ってお願いした。すると、どんな病人でも次々と救かった。
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○「神様は直接操作はされないが、心次第で運命は変えられる」ということは、人間の一人一人の運命は神様が決めて操作なされるのではなく、すべてその人自身の心づかいによって決まってくる。いきなり生まれて運命が定められるのではなく、前生における心づかい(言葉や行動も含む)の積み重ねが今生の癖性分となり生まれた時に運命の青写真が決まる。そして、それぞれの旬々に応じて様々な運命が展開されてゆくことになる。
ゆえに神様はいかなる苦しみ悩みが生じて来てもすべて「我が身恨み」であるとおっしゃられている。しっかりと自分自身の因縁を自覚し《たんのう》心を治め、‘心のほこり’をはらうことにより、大難は小難に通らせて下さり、尚かつ、誠の心で人様を喜ばし、“にをいがけ・おたすけ”などの“ひのきしん”に励み徳を積まさせてゆくことによって、だんだんと因縁が納消されて悪い運命も切り変えていただけるようになって来る。

ひろ
14日から、ヤフーの掲示板(「天理教とは、何であろうか?」)で、ある方と練り合いをさせていただいています。今日は、その投稿記事の一部を書かせていただきたいと思います。(携帯で書かせていただいていますので、文字数に制限があるゆえ掲示板の記事は若干違います。)

○「大宇宙及びこの世界そのものが神様の身体そのものである」という意味は、この世に存在するすべてのものは、神様がお造りになられたものであり、また存在するすべてのものは神様そのものであるというふうに僕は悟らせていただいています。太陽系における惑星一つ一つがそれぞれの周期をもって太陽の周りを周っています。その中の地球は12ヶ月かけて太陽を一周(公転)し、地球は12刻(24時間)かけて一周(自転)しています。これらは神様が設計せられて寸分くるいなく毎日続けられています。神様はその地球上において共に楽しみたいと思し召しになって人間をお造りになられたのです。
そして、人間は心にだけ自由を与えていただき、神様に身体をお借りしています。そして、何不自由なく生活させていただくのに必要なものをすべて貸し与えていただいて神様の身体の一部である地球に住まわせていただいて、何生も何生も生まれ更わり魂の成長をさせていただいている存在なのだと思います。
また、人間の魂は本質的には神様と同じで、神様の子供なのであります。

ひろ
 それは、文久四年正月なかば頃、山中忠七三十八才の時であった。忠七の妻そのは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、既に数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで、「見込みなし。」と、匙を投げてしまった。この時、芝村の清兵衞からにをいがかかった。そこで、忠七は、早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたところ、お言葉があった。
 「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで。」と。
 文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんどないくらいであった。けれども、どうしても治らない。
 その時、隣家の矢追仙助から、「オキクさん、あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね。」と、すすめられた。目に見えない綱ででも、引き寄せられるような気がして、その足で、おぢばへ駆け付けた。旬が来ていたのである。
 キクは、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、「待っていた、待っていた。」と、可愛い我が子がはるばると帰って来たのを迎える、やさしい温かなお言葉を下された。それで、キクは、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました。」と、申し上げると、教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに。」と、仰せられて、やさしくお笑いになった。このお言葉を聞いて、「ほんに成る程、これこそ本当の親や。」と、何んとも言えぬ慕わしさが、キクの胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのであった。
 文久元年、西田コトは、五月六日の日に、歯が痛いので、千束の稲荷さんへ詣ろうと思って家を出た。千束なら、斜に北へ行かねばならぬのに、何気なく東の方へ行くと、別所の奥田という家へ嫁入っている同年輩の人に、道路上でパッタリと出会った。そこで、「どこへ行きなさる。」という話から、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした。すると、夕方であったが、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで。」と、仰せられ、更に、「一寸身上に知らせた。」とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、「身上に知らせたのやで。」とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。
 それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷のお掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。
 中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。
 すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ。」と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
 それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。
 例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」と、非常に御満足の体であらせられた。
 これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
 教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
 そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」と、仰せられた。
『天然というは、急いてはならん/\。よう察してくれ。天然という理以てあちらこちら、どうなるも天然、こうなるも天然。“たんのう”心に治め。心におらどうと思えば、天然と言えん。』(M33.05.03)



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今現在の僕の悟り方としましては、天然自然に因縁通りになって来るのが『天の理』なので、一生懸命に頑張っているのにどうして思うようにならないのだろうか?とあせったり不足を言ってはいけない。
しっかりと“たんのう”の心を治めて、日々、にをいがけ・おたすけに頑張らせていただき神様にもたれきって歩ませていただくことが大切だと、お教えいただいているように思います。

ひろ
 『貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。』

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病気にしても、貧困にしても、実際に体験しなければ、その苦しみはなかなか理解できないと思いますが、幸いにして僕はどちらも体験させていただくことができました。世間的にはなかなかたいへんな苦労ですが、お道を通らせていただくということにおいては、ほんとうに有り難い体験をさせていただいて、心の底より感謝させていただいています。

ひろ
 教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され。」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか。」と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます。」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」と、お教え下された。

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人間は誰しも自分の考えは正しいと思いますが、たいてい間違っていることのほうが多いものだと思います。
お道の話を聞かせていただいた限りは、常に“天の定規”を使わせていただいて人間思案を極力なくしていきたいと思っています。

ひろ


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