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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\尋ねる処の事情よう聞き分け。遠くの所より運ぶ処、よう聞き分け。何かの処尽す処皆受け取ってある処、又先々の処、理を聞いて、何かの処理を治めるよう、理を聞かそ。内々睦ましいは誠、誠は天の理である。誠は弱いものである。弱いようで強いもの。強いというは、誠は天の理である。長くの道なら、長くの心を定め。どんな細道でも、誠の心通れば、何にも危なき無い。遠くやさかいに、近いさかいにという隔て無い。遠くは遠くの理がある。誠さいあれば、自由自在と言うて置こ。この理を聞き分けて置け。』(M20.12.14 おさしづ)
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『これまで尽す長々道中、いかなる処聞き分け。一つの心で理治まってある。ちょとの心得ある。どういう事も一つ理答え、どういう事十分一つのたすけ一条、日々見る処何でもこの理聞き分け。長い日長く、一つこれだん/\一つ心治まる。所一つの理見る処、一寸の心得というは済んだ。一寸どういうものである、ほんになと言う。あんた又どうなる知らん、案じる事は要らん。さあ/\一日の処晴れる。又曇る。又風吹く。一日明日は又晴天、同じ、よう聞き分け。』(M20.12.14 おさしづ)
すべての悪因縁の元は、‘我が身かわい’より生じる‘執着心’即ち‘恨み’である。それ故に神様は「難儀するのも心から我が身恨みであるほどに」とお教え下さっているのだと思います。

自分に対して難儀苦労をかけてくる人たちは、悪因縁を消して下さる“恩人”であると悟り、「何を言われても何をされても腹を立てず、イライラせず、怒らない、そしてくよくよ悩まない」という“ハ・イ・オ・ク”の心を持ち相手を許す。
そしてその上に、難儀苦労をかけ自分を苦しめている人を『拝む』、そして神様に深くお詫び(さんげ)をして凭れきり、すべての成ってくる理を受け入れ、一切不足を言わずに任せ切ることによって悪因縁は納消していただくことができる。

この‘恨み’をどこかで止めないと、代々延々と苦しめ傷つけ合うことになり、最終的には殺し合いになり、やがて戦争へと発展してゆくことになるのだと思います。

これは、実際に現在僕自身が体験させていただいて悟らせていただいたことであります。

僕自身は、小さい頃から足が不自由で、大きな借金ごと商売を受け継ぎ、しまいには借金地獄に陥り、詐欺にもあって、自己破産に追い込まれ、持ち家まで失いました。
現在は、元の自分の家に、大家さんになんとか無理をお願いして賃貸で住まわせていただいています。

これは、僕自身の前生前々生において積み重ねてきた‘大ぼこり’が現れて来た姿なのだということを、やっと今、深く深く悟らせていただくことができました!!
ほんとうに有り難く思います。誠に誠に、有難うございました!!m(_ _)m

ひろ
『さあ/\身の処/\にて心得ん/\処よう聞き分け。いかなる、前々の処聞かしてある。身の内それ/\処へも尽す処の受け取りある。内々の処へも一つの話を締まり、一人でも救けにゃならんという心を定め。身の処速やかという処ある。長くの処やない。世上の事情ありて、身の処速やかなあという処ある。一寸あちらが結ぼれる/\。皆どんな者でもある。それを分かれば、身の処速やかという処ある。それは直ぐと。』(M20.12.13 おさしづ)
『さあ/\尋ねる事情/\、一時どうせえと言うわんで。行く/\の道は、世界にあるで。行く/\の道、長い道、土台を一つ拵え。半期一年、そこに、一つの道がある。半期々々々々々々そこで一年という日がある。忙わし/\/\日いがある。不自由々々々々々々という道もあるで。早くという、未だ/\/\いう道もある。仕事々々々々いう、未だ/\いう理いがあるで。これ誠重なりて来る。忘れんようと。』(M20.12.12 おさしづ)
『さあ/\/\問いに出る/\処、前々いかなる処理を聞かしてある。心を尽す/\処は、理は受け取りてある。内々の処は十分の中にいかなるも聞き分け。世界を救け、分かりが有りて分かりが無い。人間始めた元々理が分からん。めん/\理以ちて話伝える。何で一つよう成らん。よう成らんではない。前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。そこでいかとも言わん。幾月とも言わん。これならと話を聞き分け、身に障り、それより事情。』(M20.12.11 おさしづ)
『さあ/\尋ねる。一名一人心尋ねる理は、一名一人万人同じ事、一名聞き心にある。何か聞いて居るであろ。人間々々元が分かろまい。世界中皆神の子供。難儀さそう、困らそうという親はあるまい。親あって子がある。この理を聞け。憎い可愛の隔て無い。養育さしてもどのよな者もある。同じ幾名の中、親の子、中に一つ隔てられる、隔てられる。一名一人かりものによって仕られる。多く子供隔て理は無い。世上見て多く中の理を見れば、分からん事はない。同じかりもの、前々生まれ更わり、身に錆びる。又生まれ更わり、同じ心通り身に現われて、見分け聞き分け。人間同じかりもの知らす。知らん。世上鏡映してある。分かる。難儀不自由身上現われてある理を見る。そこで長々あの身なら、たんのう無きにもあろまい。それよりたんのう早く定め。誠心である。身が不自由、たんのう、理はあるまい。人間同じかりものなら、その身ならたんのう。一寸早くいかなる理を取り直せ。』(M20.12.09 おさしづ)
『さあ/\尋ねるから理を聞かす。いずれ国の中理が分かれば自由自在。広く多くは元の理を聞かそう。元々何にも無い。早く聞き分け。人間心更に無いと、人間心更に無いという理を聞き分け。人間心と言うおか、神の心と言うおか、言う理を聞き分け。ちゃんと言うおか誰と言うおか、何でも無い百姓家の出、女一人十三才の年より入り込み、誠々々天然自然の道付くという処も聞いて居るであろう。よう聞き分けて理が分かれば、広く往還の道を通れるものと、憎うて言わぬ。可愛うて聞かす。蒔いたる種は腐らぬようと、早く一つの理を見るよう、国々の理を分かるようと。』(M20.12.06 おさしづ)
『さあ妊娠の処、世界から見るは余程難し道である。その妊娠産式の許し、これに一つの理があり、この理というは話、この理を聞き分けんというと、何も分からん。神心からは隔ては無い。さあ案ずればその案じに理を増す。この理をよう思やんせよ。さあ何かの処も苦がすうきりと遁れてあるで。さあ事情の道、さあ道から道へ、さあいんねんなら一つはどういう道もあり、世界見よう。その隔てられ、隔てられるも、一つは心にあり。さあその真実を受け取りたから、身を二つ。さあ後へ残る処、この理をよう聞き分けにゃ分からんで。さあ心鮮やかなら、すうきり、後へ残らん。もう一つ心後へ残るから、身の内ももう一つ後へ残るのやで。さあ当座やない。我生涯の心定めれば、身の内は速やかなり。』(M20.12.06 おさしづ)
僕は、2003年12月17日に約26年ぶりに天理教に引き寄せていただきました。そして、2004年03~05月(この時に『おさづけの理』を拝戴させていただきました。)と同じ年の10~12月に修養科に行かせていただきました。

その後、2005年の11月23日から毎日ではない掲示板のブログを始めさせていただき、2006年11日11日から心定めをさせていただき、毎日ブログを書かせていただくようになりました。
その中で、道一条にならせていただき集談所のお許しをいただき、ほとんどすぐに理の子を授けていただきました。現在は、別席を五席まで運ばせていただいています。

なかなかいろんなことがありましたが、今日でブログは満二才になりました。(^-^)v

ひろ


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