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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『日々は喜んで通らして貰うのやで。喜べない様な日もあろう。喜びにかえて通らして貰うのやで。真実の心で通らして貰えば、喜べるのや。誠の心で通ってくれ。日々通らして貰う心の使い方、持ち方、よう思案してくれ。心の使い方によっては、徳にもなれば、埃にもなるで。真実や、誠やと思うて通っていても、その真実誠の中に埃がまじるのや。それを誠の中の埃というのやで。心の使い方というても、我が身思案からの通り方と、人に救かって貰う、喜んで貰う通り方とがあるのや。塵一つ拾うても誠。大きな木取り片づけても真実といえん事もある。日々よう思案してくれ。誰れにでも通れる事やで。心の持ち方、思い方が大事やで。心の思い方というても、人間はあざないものであるから、都合の良い様に考え、又は思い、我が身に都合の悪いことは、そうはいかんというてしまう。そんな事では道はつくはずがない。都合の良い事も悪い事も、心一つに治めて通ってくれ。神様がきっと連れて通って下さるで。一つも心配いらんのやで。日々通る中に、どんな中もあろう。難儀な中
、むずかしい中、そのならん中を喜びにかえて通ってくれ。その中にご守護が頂けるのや。無理と思うてはいかんで。たいそうに思うやないで。喜びにかえて通って行く中に、あゝ結構やった、有難かったと思える日が必ずあるのやで。その日を楽しみに通ってくれ。今の苦しみは先の楽しみやで。日々を喜んで通らして貰いなはれや。』

これは、明治八年六月十四日、桝井伊三郎氏がお屋敷へ詣り、教祖に、「心が晴れ晴れと致しませんので………」と申し上げたところ、教祖がお話して下さったお言葉だそうです。(「しあわせを呼ぶ心」尾崎栄治著 善本社刊より)
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「この道は、自分で聞いて自分で信仰してるんじゃない。魂のいんねんが迫って刻限が来ると、神が引き寄せて神がさしてる道やで。これを人間わざと思うな、この世初めた真実の“をや”がつけてる道やで。」

これは、愛町分教会初代会長関根豊松先生のお言葉の要旨をまとめたものです。
すべての人間は、神様がお造り下さりお育て下さって人生という道を歩ませていただいているのであります。
また、お道に引き寄せられて信仰している人々すべては自分自身の意思で信仰しているんじゃない、すべて神様が魂の因縁に従って連れて通って下さっているのだということを忘れてはいけないよ!!ということです。

そして、お道を通らせていただく心構えとしては、
「救かりたい!救かりたい!と言って、手を合わせて拝むことが信仰ではない。ほんとう(お道)の信仰というものは、決して自分を許さずに自分を捨て切って人をたすけて通らせていただくことである。」

ともお教え下さっています。

ひろ
これは、愛町分教会初代会長関根豊松先生のお言葉ですが、これは、「我が身がどうなっても、人様を救けずにはおかれない!!」という“たすけ一条”の強い強い精神の持ち方をお教え下さったものだと悟らせていただいています。

またこれは、『貧に落ち切れ』と親神様が教祖(おやさま)におっしゃられたお言葉と同様の意味があるものと悟らせていただいています。

『貧に落ち切れ』とは、ただ「あるものをすべて施して、貧しい人々の心を知りなさい」という意味だけではなく、「我が身を捨てて低い低い心になり切りなさい」という意味も含まれているものと思案させていただいています。

つまり、『身を捨ててこそ』ということは、「我が身を捨て切って低い低い優しい思いやりの深い心になって、どうでもこうでも苦しみ悩んでいる人々を救けずにはおられない!!」という精神を持つことが大切なのだということを教えて下さっているように思います。

ひろ
『さあ/\だん/\尋ねる処、刻限順序の理を尋ねる。刻限というものは、何時でも話するものやない。刻限は詰まり/\てどうもならんから、それ/\決まりた理を知らす。何の事でも違うという事は一つも無い。なれど、これまでというものは、刻限の理を聞きながら、どうもならん。何を聞いて居たのやら分からんようなもの。どうでも刻限は間違わん。刻限は積もり積もらにゃ話出けん。時々諭した処が分からん。そこで、何ぼ言うたて分からん。刻限は積もり/\ての刻限である。善き事は何ぼ遅れてもよいがなれど、成らん適わん声も無く、堪えるに堪えられん事察してみよ。誰の事とは言わん。紋型無き処からの道理を見れば、嘘はあろまい、間違いはあろまい。言い難くい事も言い、難しい事も解きほどきて一つ扱う。世上から眺めて聞くにも聞かれん、見るに見られん、心にあれど口には出せぬが理。よっく聞き分け。又集まりて刻限道理から一つ道あれば、疑う事出来ようまい。よう聞き分け。同じ多くの中に一つ、多くの中の中がある。どういう事に思うか。一つ入り込んで
居る。皆々日々話伝えて居るは、中の中である。一つ諭の中、道理がある。元という中に一つ聞いて成程は理であろ。どういう事ぞいな。あんな事か。と、これで道として理に当たるか、理に当たらんか。日々働いて居る/\。よう聞き分け。人の事と思うなよ。我が事になってから、どうもならん。これ聞き分け。何ぼどういう事を言うたて、言うのが悪いなあ、言うてはいかんなあ。包んで居ては真実真の事とは言わん。我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう。』(M32.11.3)
助かったからいい、許しません、助かりゃあ助かるほど自分を許しません。そこが信仰です。信仰は助かったからいい、それで自分を許してしまうのは信仰というのではございません。信仰というものは、断じて自分を命の限り許さない、これが、信仰の根本でございます。しっかと皆さんもお聞きになって、そうして自分が助かったからいい、それじゃございません。家庭がすっかり助かんなくっちやいけません!家庭が助かるのには、人を助ける道がなかったら家庭は助かりません。
ですから、お道というものは、真実に人を助ける心が信仰というのでございます。手を合わして拝むのが信仰じゃございません。人を助ける心になるのが信仰という精神であり、その道を正しく通さしてもらうのが、信仰というのでございます。よくその点はお心におおきになって、なんでもしなくちゃならんというんじゃございません。出来るお方は、それをさしてもらうことが何より肝心でございます。その点をお心におおきになって、そこに精神を離さないで通る心が信仰というのでございます。堅く申し上げておきまして、本日はこれでお治めさせてもらいます。(昭和38年10月12日 愛町分教会秋季大祭の祭典講話より)
これを人間わざと思うなとおっしゃってるお言葉があります。人間で聞いたんじゃない、人間で説いてんじゃない、神がさしてなさる、神が聞かしていなさる。
これなくして、行くに行かれん、通るに通れん日が来ているから、これを教えてもらうのでしょ?
重大な問題です、と言って、ねぇ、それがために私は道を無理にすすめてんじゃないんです。もうこれなくっては行くに行かれません。道が耳に入ったらだめです。そこまで魂の因縁がせまってるから、神が引き寄せて教えていなさるんです。
ねぇ、だから教師も重大です、それだけのお方を預かって、それでいいがっ…、自分で自分をまったく叩しめて行かなきゃなりません。また、お聞きになるお方も、よーっくそれを悟らせていただいて、聞いたら、ねぇ、ほんとにそれを信じて信じ切れるまでやり切って行く心がいいようでございます。堅く申し上げておきます。これを簡単に聞いて、いいかげんなことをしておいでになりますと、道を聞いてて誠にお気の毒様なことができて行きます。助かる道が助かって行きません。それは、軽くしておいでになるから、そういうことが起きてくるんです。

つづく
もう八十二です。普通だったら、もうこの日になんか出てお話なんてしません。もう何もそんなことしなくたって飯も食えりゃ困りもしません。
いけません!いけません!絶対それはいけません!!もう命の限りやりきらなきゃなりません。
さあそこで、皆さんもよーっく考えてごらんなさいよ。こりゃあ、自分で聞くんじゃないんです。神が刻限が来ると引き寄せて、そうして教えていなさるんです。私は、それでこれを一生懸命やり切ってきました。
東京で立派な教会をいくつも拵え、人に持たして、自分は教会長にならない。ほいでこっちへ来て、これも人に持たせて逃げようと思ったら、今度は会長さんが聞いて下さらない。関根さん、いいかげんにしなさいよ。あなたはそれでいいか知れないが、その度に子供が一緒にこじきみたいなって難儀するのが見ていられないよ。
私は平気です。道のための難儀はその人のどれくらい幸福になるかわかりません。そこです。そこで、道は深く分かってくりぁ分かってくるほど、本心が座ってきます。ねぇ、ですから皆さんも心に離さず、しっかりこれを聞き分けてごらんなさい。重大な問題ですよ。宗教だ天理教だと言っていますが、そんな軽々しいもんじゃございません。ご自分の末代行く道にこれがいいようです。
ねぇ、一代じゃございませんよ、末代これがなくっちゃいけません。魂にこれを聞き込んで魂に入れたら、来世持って出てます。
大丈夫!です。もう、おぎゃあと生まれて、ねぇ、子供の時代から難儀はございません。ですから、お道くらい大事なものはないんです。

つづく
それを、早くに分かって早くに聞からせてもらったということは、このくらい徳なものはございません。それが、はっきり分かってきたんです。なぜ、そう申し上げるか?
これがはっきり分かってくると、さあ行く道をどうして行くもこうして行くもありません。神様がちゃーんと与えてくれて、ちゃんと通る道を付けてくれます。それをしっかり通っておったら、なにもいけないことはございません。
いけないことができたらどうしたんだって言うと、お道が心にございません。信仰は、形はしてます。形はしてますが、腹の中に信仰がございません。必ずいけないことになっちゃいます。これが、ちゃんと通れた試しがないんです。これは、私は数々人様をあつかってきてますから、それで知ってるんです。
それがまた、いいかげんに通っていいかげんに結構に成っていくんなら、私もこんな窮屈なことはしてません。もっといいかげんなことをやるかも知れません。ねぇ、そこで皆さんをそこに落としちゃったら、私は神様に申し訳がない。だから、ついこういうことまで説きたくなっちゃうんです。説いてて、一生懸命説いててそれを聞いてておやんなさって、そこにお落ちなさんのは、自分の自業自得です。これは、私が悪いんじゃない。ところが、そこまで説かないでそこまで精神入れないでそこに落としたら神様に申し訳がない。

つづく
また、いいかげんなもんだったら、私も男です。こんな窮屈なことはやってません。こりゃあ、自分でやってんじゃない、神様がつかっていなさるんです。神がさしてなさるんです。
いや、そんなことがあるもんかと、こう思いますやねぇ。ところが、自分の身体は自分で拵えた人はないんです。私も自分で拵えたんじゃない、両親がそろって拵えてくれたんです。片っ方の人じゃ出来ません。二人そろわなきゃ、二つの理がそろってこなきゃあ、人間は出来てきません。
さぁ、それが人間わざじゃあないんです。そりゃなにかと言うと、このおやさまのはたらきです。そこで、よーっく考えてご覧なさい。自分の身体は自分で拵えたんじゃない。自分で育ったんじゃないんです。
で、親が拵えたって言いますけれども親でも知らないんです。なんだかできちゃった、おなかが大きくなってなんだかできちゃったってなっちゃってるんです。拵えようたってできやしないんです。さあ、それが人間の力じゃないんです。そこでもう一つ考えてごらんなさい。自分の身体は自分で育ったんでしょうか?
自分で拵えて自分で育ったんならですねぇ、なんでそんな拵え方したんだって、言いたくなるじゃありませんか?
しょうがない、どうしたとこでしょうがない。ほら、自分で拵えたんじゃない、神様がお拵えになって、神様がお育てになった。神様が今連れて通っていなさる。これは、天理教信仰してる者ばかりじゃない、社会の人間は、皆そういうふうになっちゃってるんです。

つづく
おやさまが今日まで仕込むのに連れて通って下すったんです。だから神様のお言葉には、“これを人間わざと思うなよ、この世創めた真実のをやが付けてる道やで”。
ですから、みなさんもこうしておいでになっておりまするが、これは誰がどうしたんじゃない。もう自分の魂がどうでも道を聞かなきゃならなくなってくると、おやさまが道をお付けになるんです。それ証拠にですね、道を聞き始めて道を嫌ったお方が満足に通ってる人は一人もないんです。これはまあ私は数限りなく人をあつかって知ってるんです。私のこったから、それっ、みろっ、いわないことじゃないじゃないかと言うようなことが出来てしまうんです。
確っかにこれは人間わざじゃございません。聞いてるお方も、これを丹精してる教師も断じて自分を許しちゃいけません。
“これを人間わざと思うなよ、この世創めた真実のをやが付けてる道やで”。
こういうお言葉が出てんです。だから、皆さんも自分で聞いたんじゃない、これを聞かせられたんです。聞かせられた話はあまり好きません。好きませんけれども、まあ聞かしてくれるから、まぁまぁまぁ。助かんならやってみよう。聞きっ放しちゃいけない、聞きっ放すとえらいことになるそうだからぁ、仕方がないからやろう。…っと、こんなふうな調子でみんなついてきます。
しかしながら、そうしてついて来てですねぇ、これをやめた者はありません。なぜやめた者がないかっていうと、私は東京で大きな教会をいくつも拵えて人にもたして、当地にしましてもここまで来たんです。

つづく


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