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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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ねぇ、それでこの話を聞いて、全く天理を悟ったら、必ずその人の行く道は立派になる。天理を悟るってことなしに聞いてるよ皆………。ねぇ、聞いてる人間のところへ入ってく話がどう聞いてるかと言うと、ほら、自分が結構になって自分が立派になることが腹にあるだろ。だから、聞き間違いしてる、聞き間違ってる。
神様のお言葉には『身を捨ててこそ立つ瀬がある』。それ証拠に私はまだ身を捨ててられる。なぜって言うと、皆の顔を見ると一生懸命話をしてる。
自分が結構になったからって、人のことはほおっときはしない。顔見ると説いていたい。ねっ、一生懸命道やってる。私は結構になろうと思ってやっているんじゃないんだ。結構になろうと思ったってなれやしないよ。神様がしないもの。そんな欲な心持ってたんじゃ…。
ねぇ、私はまだ難儀するのを喜んで、神様のためだったらなんでもやろうと思って…。
その心だから、神様のために話をしてるんだから、皆に…。だから、こういうところにも坐っていられる。
ねぇ、だから皆も、お道を聞いたら、断じて自分を許さない。助かろうなんて心を持っちゃいけない。持たないたって神様の理に沿っていけば、助かるに決まってんだ。

つづく
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『人を助けてこそ我が身が助かる』というお言葉が神様にはある。ねぇ、ですからどうしても一代自分を捨ててお道をやってやり抜いた者なら、こういうところに坐っていられるんだね。だけど、私はもうこういうところに坐ってたって、こういうとこに坐っている気はありゃしない。
やっぱり難儀する事を楽しみにやっている。これをこういうところに坐って、やれやれと、もういいと思って気を許してうっかりぼーっとしてやってると、いけない。ねぇ、なぜいけないかってい言うと、もうそれで偉い心が出ちゃってるから、その人間はかたわになるか、ねぇ、軽くいって命がいくか………。
「欲があるならやめてくれ」って言うんだから、欲の心を出して神様にすがったってダメじゃないか。
その神様のお言葉の中に、『身を捨ててこそ立つ瀬がある!』、こういうお言葉がある。ねぇ、だから、私はいまだに身を捨てている。
それ証拠にお前さんたちの顔を見ると、ねぇ、僕はお話をしている。偉い先生だから、もうお話もしないでさっさとえばって帰ってしまう人もある。ところがいけない。ねぇ、私の話と話が違う。神様がさせなさるんだ。
助かろうと思うんじゃない。助けようと思わにゃいけない。ねぇ、それが、私の信仰だったから、私は今立派になったって皆の顔見るとちゃんときちんと話をしてる………。

つづく
私は、一代地べたへゴザひいて寝てお道をしようと思ってやったんだ。一代やったら少しは人間らしくなるだろうと思ってやったんだよ。そうじゃない、やってる内にこんなことになっちゃったんだ。こんなことになっちゃったんだって、なんだか財産でも無くなっちゃって困ったような話だけど、そうじゃない。一代地べたへ寝てお道をしようと思ってやってみたんだ。そうしたら、一代どころのさわぎじゃない、そんなこと言ってやってみて一年経たないうちにこんなになっちゃった。
神様のお言葉にもあるよ。『身を捨ててこそ立つ瀬がある』これは、神様のお言葉なんだよ。
ねぇ、ところがどうもお道を聞いていると、ねぇ、お道をもって自分が助かろう、助かろうと、こう思って皆かかっているらしいんだよ。信者さんでも教師でも。ねぇ、だから自分が助からないんだ。
『身を捨ててこそ立つ瀬がある』って言うんだら、自分一代地べたへ寝てお道やろうと思って私はやってたんだよ。一代お道をやったら、なんとか人間らしく成るだろと思ってやってみた。そうしたら、一代どころじゃない、わずかの間にこんなになっちゃったんだ。
ねぇ、お言葉には、『身を捨ててこそ立つ瀬がある』っていうお言葉があるんだ。身を捨ててこそ立つ瀬があるって、それが分からないんだよ、人間には。私も分かんなかった。自分がやってみたら、なってきたんだ。やってみたって、成るだろうと思ってやったんじゃないんだ。成るだろうと思ってやったらだめだ、欲が働いちゃうから。
自分は一代難儀してもいいから、お道をやろうと思ってやったんだ。そしたら、こんな事になっちゃった。

つづく
ねぇ~、だから神様の事は、全く自分を捨ててやり切って行かなきゃいけない。
………………………………
お道というものは一種別のもんなんだ。私はさんざんその中を抜けて来た。ねぇ、どうにも人がいけないってものを助けしてきた。人間力でかなわんものが助かんのがお道じゃないか!
ねぇ、だから道というものは、まったく自分を捨て切ってやって、やり切ってみなきゃあ、本当の道は分からない。私は自分を捨て切ってやり切って来た。まあ一代地べたへゴザひいて寝られりゃいいって。
………………………………
私は、難儀しようにも難儀はできない。東京でもさんざん難儀しようと思ったけど、どうしてもできない。しょうがないから、こっちへ来たんだ。
だから、この道は、信仰して助かろう、助かろうでうまい事ばかり考えている人は、いいご守護がないんだよ。全く身を捨ててこそ立つ瀬があるんだ。私みたいに自分を捨てちゃって、お道のことを一生懸命やったんだよ。そうしたら、私みたいになっちゃった。そりゃまったくそうだろう。
御教祖様が自分を捨て切って、ねぇ、あんなご本部ができたんだよ。ご本部が出来たからって、御教祖様はそこにいて立派になったかというと、ご自分は苦労して苦労して、あれを拵えて終わられた。
ねぇ、だから、助かろうと思ったって助かりゃしないよ。助けようと思わなきゃ助かりゃしないよ。
ねぇ、だから、助かりたかったら、人助けたらいいじゃないか。助ける心が人を助けるんじゃない、自分が人を助けといたのが、自分が助かっちゃったんだ。そしてこんな立派な教会に坐れるようになちゃった。

つづく
ねぇ、だからみんな信仰しても、神様を軽くしないように。私はもう神様を重~くして東京の教会を拵えて、会長さんにいけないって言われて、親の方からもそんな馬鹿なことをするもんじゃないって言われた。何言われてもかまわない、金なんぞ持ってたってしょうがない。教会のことができりゃこんないいことはないんだから。私が教会を買って、そして新築して、なあにいけなかったら自分でもって教会を拵えりゃいいんだ、と思ってすっかり裸になっちゃった。裸になってこっちへ来た。
神様の言葉に『身を捨ててこそ立つ瀬がある』とある。私はもうお道の事には、自分を捨て切ってやったんだ。
東京でもって散々自分の物を捨てて、人に教会を拵えてやったりなんかして立たしてきた。で、私は教会を持って立つのは嫌だから、なるべく地べたへ寝て、一代地べたへ寝てゴザを敷いて、そして布教しようと思った。それ位やったら、ねぇ来生は少しは人間らしい人になるだろうとやってみた。だからこっちへ来ても、そこにゴザひいて布教した。
そうしたら、どうもまあまあ人の助かること恐ろしい。医者がもういけないという病人が、僕がお願いしたら治っちゃう。ねぇ、だからどうも、神様の事は一種別なもんだよ。やって、やって、やり切って通った道が、おかしいじゃないか。とにかくご覧な、周りはぐる~っと皆道路だもん、こんな教会ありゃしない。

つづく
先代の麹町の会長さんが、もうひじょうに可愛がって下さった。子供以上には可愛がって下さった。「豊ちゃん、豊ちゃん」と言っちゃ可愛がって下さった。そして教会で育てられた。本郷二丁目に二軒長家の片っ方を借りて布教してなすった。息子さん達は反対…。
そこで、私が一緒に働いている内にお父っつぁんが死んじゃって、財産貰ちゃった。そのお金の使いどころがない。だもんだから、自分で好んで、あの今の大教会の建っている地所を私が買った。その時、まだ東京市にならない。でも東京市になるに決まっているんだ。私はそうとみたもんだから、私が買った。そしたらまあ、皆びっくりした!
そんなとこを買って大教会の地所…。まあ何でも僕がいけなかったら持ってるからいい。僕が持ってたってそこの地所に家作さえすりゃあ、もうそれで何にもしなくたって食ってられる。それから地所を買っちゃって、お金がまだあってしょうがない、それからそこに新築してあげた。そうして働いたよ。素っ裸になって働いてたんだ。
だもんだから、みんなが憎がった、親たちが…、「そんな事しちゃったらお前どうするんだ?」「私しゃどうするんだって?こじきしたっていいじゃないか…」「そんな馬鹿な事ばかり言って、いくら天理教やったって、そんな馬鹿になる奴があるもんか…」
それからまあ教会を買ったげて、それからこっちへ来ちゃった。裸一つで…。こっちへ来たら、一年経ったら新築ができちゃった。これは、本部でもびっくりしたよ。なにせ、どうも神様の事はねぇ、これは特殊なもんだ!

つづく
今日は、愛町分教会初代会長関根豊松先生の御命日です。数えでは四十一年、満では四十年目の御命日になります。

僕は、長谷の観音様を信仰していた頃から、当時のお師匠様に『天理教には、誠に素晴らしい愛町という教会の会長さんがおられる。』ということをお聞きしていました。
しかし、もう命が無いというところまで追い込まれた約五年前に、再びお道に導いていただきました。

それから、とにかく愛町の初代会長関根豊松先生のことを詳しく知りたいと資料を探し求めていましたが、なかなか見つからずにいました。
ところが、三年くらい前に所属の教会の本棚をごそごそと探していたら、ほとんど目のつかない開きの中に、関根先生の伝記である『因縁に勝つ』というご本がありました。それを見つけさせていただいた時には、もうほんとにびっくり仰天しました。
たぶん、僕に『因縁の自覚』ということを厳しく仕込んで下さった理の親さん(その教会の親々会長さんで上級の教会で勤めておられます)が求められて本棚の奥深くにしまっておかれたのだと思いますが、そのことを現会長さんや会長さんのお母さんにお話したら、ぜんぜんご存知なかったようで、またまたびっくりしてしまいました。
それで、これはもしかしたら、必死になって道を求めていた僕に、神様がプレゼントして下さったのかも知れないなあと、深く深く御礼を申し上げました。

それから、昨年の始めには、『愛町分教会初代会長様のお声』という幻のレコード(LP版)をお与えいただき、暮れには、『赫ける神人』というご本をお与えいただくことができました。

今年は、これからも精一杯頑張って、教祖(おやさま)のひながたの道を通り切られた関根豊松先生のお言葉や道すがらを主として書かせいただきたいと思っています。

ひろ
『さあ/\身上々々一つの尋ね、心得ん事情尋ねる。明らかの理を諭し/\諭しも無きもの。第一それ/\主と取って気に掛かる。めん/\心に掛かる。心働かにゃならん。余の儀外の儀でない。どういう理聞かせ。理の当然、道明き処、広き処、事情一つの心に持って、どういう事も話せ。何も外の事言うのやない。心に皆理が治まる。どんな事話すやら。随分心得々々という理治めて置かねばならん。今一時治まって、それ/\成程々々、身の処鮮やかなるであろ。』(M24.07.05)
明治十三年四月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、坐骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々治療の限りを尽したが、その効果なく、本人はもとより家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。
 何んとかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、行ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村めざして帰って来た。
 そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、 「救かるで、救かるで。「救かる身やもの。」と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しいお話をお聞かせ下された。そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持になって帰途についた。
 家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。
 そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治十四年の正月には、本復祝いを行った。幸三郎四十二才の春であった。感謝の気持は、自然と足をおぢばへ向かわしめた。おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。
教祖は、「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」と、仰せられた。
 幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった。(天理教教祖伝逸話篇七二より)
『さあ/\身の処尋ねる。一寸の身の不足、願えども聞けども、一つ判然の理分からん。多くの中一つさしづ、世界々々、一つさしづ思う。一国限り一軒一人限りの理、心掛かり/\の処、身は速やか。実一つの理を尋ねる。順序何がある、よう聞き分け。頼む願う理が無い。何でも一つの理を案じる、何程でも案じる。幾重残らず、神の守護何程、たすけ一条。難儀さそう、不自由さそう神は無い。めん/\一つ一ついかん。一そうもう一つ、一つの理がある。どんと一つ据えん。世上見てたんのう、この心一寸治めてくれるよう。又や/\一つ心を運んで安心心定めるで。理を見にゃならん。』(M21.01.12)


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