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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\尋ねる事情、身上に不足なるは、どういうものと思う処は、よう聞き分けにゃならん。一名々々に皆違うでな。この理を諭し置こう。めん/\にも人に諭して居るやろう。聞いて居るやろう。めん/\も身上に不足なる処は、悟らにゃならん。内々の処よう思やんせよ。蒔いたる種は一度は皆生えるものである。前生いんねんこの理を聞き分けにゃならん。前生の理を見て、身上あって楽しみ。身上無うては楽しみ無いである。十分の処は、これからと思う処は、楽しみと思うてするなら、この理を追々聞き分けて通らにゃならん。一列は世上見てたんのう/\の心という。この理を諭し置こう。』(M23)
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『さあ/\尋ねる事情/\、身上事情尋ねる。身上の処一時どうと言うではない。なれど、一寸身上大層。どういう理いでなるという。一つの所にてこういう事であろうという。内々事情一つには、世上思う事情よく聞け。事情遠慮が無い。身上迫る処事情はいんねん。いんねん事情聞いて理を諭そ。一時事情大層、十分事情運び、事情早く掛かり、事情はいんねん。一時大層という。』(M24.01.18)
『さあ/\事情はいんねん尋ねる処、いんねん事情、いんねんの事情は、とんと分からせん。心で諭して身上の事情、一寸は大層。早く聞き分け。早く事情先ず/\暫く踏ん張らねばならん。いんねんの事情、どれだけいんねんと言うても、たゞいんねんでは分からん。いんねんの理を諭して、身に不足なるは、よく聞き分け。一つの理を聞き分け。いんねんの理を鮮やかと、この理を諭してやってくれ。』(M23.01.29)
ちょっと今日は、少しおもしろいというか、たぶん皆さんも興味がわきそうなお話をさせていただきたいと思います。m(__)m

お道には『蒔いたる種はみな生える』というお言葉があるのは、ご存じかと思いますが、キリスト教などおいてもおなじような言葉があるのをご存じでしょうか???

『人は蒔いた種子は必ず刈り取らなければならない』(聖書)

というものですが、以前にもご紹介させていただいた“エドガー・ケイシー”氏は、敬謙なクリスチャンでありながら、“人間の魂の生まれかわり”を不思議な形で実証されていて、『人生は一回のみではない、魂の成長と愛の完成のために………』という言葉を残されています。

なぜこういうことを書くのかと言いますと、最近また、ケイシー氏のご本を読ませていただいていますが、僕の中で最もインパクトのあった箇所は、

「私利私欲のために他人を妨害することは、下肢の麻痺を招く」

というところでした。

これには、ほんとにびっくりしましたが、まず間違いなく事実であると思っています。
お道のことを深く研究、勉強させていただくにあたり、神様は様々なご本をお与え下さっているように思います。

最近また、ケイシー氏のことを題材にした『転生とカルマの法則』というご本をお与えいただきました。そこには、「キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教などの根本の神は同じである。」と書かれ様々な面から説かれてありました。

僕は、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教については詳しくは知りませんが、キリスト教、仏教、イスラム教などと同じように、すべて同じ神様、即ち『親神天理王命』様が、その時代時代に応じてお現れになられて説かれた御教えなのではないか?というふうに認識させていただいています。ただ、聖典を解釈した人間の自我によって歪みが生じ、極端な教えが展開されてしまっているだけなのだとも思っています。m(__)m
それから、『生きがいの創造』という、全く宗教とは関係のないところでの「飯田史彦」先生の“生まれかわり”についてのご本もお与えいただきました。
どうやら、世界は“水瓶座時代”に入り、我々人類(人間)は真摯に“生まれかわり”や“前生の因縁”について、そして、真の人生の意義をしっかりと研究、勉強、そして、実践させていただかなければならない時代に成って来ているのではないでしょうか?

ひろ
『さあ/\内々の事情思い掛け無い一度の事情は諭してある。さあ/\一つ事情心何処から何処まで聞こえるよう。見てはどう、眺めてはどう、これ理が大事。一つこれ理を諭して置こう。そこで理を聞き分けてくれるよう。見ては見難くき、聞いては聞き難くいという心無きよう。』(M24.03.21)
『さあ/\身に掛かる心に掛かる一つ事情、万事一つは治めて居る。だん/\の事情先々それ/\事情、事情は皆んな同んなし事情治めたる処、先々言うても運ぶ理、言わいでも運ぶ理。この理難しいような、もう尋ねる事情は先々事情は治まりてあろう。事情何処も同んなし事情。育てば育つ、育てねば育たん。この理を聞き取りて置かねばならん。』(M24.03.21)
『さあ/\身の処/\皆一々尋ねる。前々以ちて皆知らしてある処、身はどうでも分からんという処尋ねる。尋ねるから聞かそ。日々の処不自由一つも無い。思い掛けない、とんとどうもならんと、外に案じは無い。身の処に一寸案じ一寸不足どういうもの、身の処十分の案じてあると、たんの一つの理急く。一つの理もある。何処がどうや、内一つ暮らす処や。早く、一つの処から何でも思やんしてくれ。日々暮らす処がたんの。世界の理を見てたんのう一つの理を定め。何よの事もたんのう一つの心定め。身の処案じは要らん。第一案じてはいかんで。一つ旬々の道も聞いた。旬々のあたゑと、この理を聞き分けてくれと。』(M22.11.02)
『さあ/\尋ねる事情/\尋ねる事情、身の処にて心得んという事情、いかなる理いかなる心。身の処心得んという事情は、よく聞き分け置かねばならん。一寸迫る。何が間違うであろう。日々の処間違う事は無い。事情計り難ない。他に諭するに、どういう事情諭すか。めん/\それ/\めん/\の処にて道の理というは、万事の理に治まる。世界小そう取りてはならん。第一の理思うように行かんと、日々思うは理であろう。日々精神ありて日々十分尽す運ぶは、十分受け取るである。いかなるもたんのう。事情は世上一つの理に治まりて来る。その中に身の障りというは、どういうもの。善き事もどんな事も一人の理に掛かる。大き一つ心、先々長くの楽しみ。先々いかなるもまあ/\。早くが早くにならん、遅いが遅いにならん。身の処、いかなるも案じ無き、更々以てどんな話どんな理、治め方の話、旬々の話。旬が来れば、独り見えて来る。万事ずうと先々の心を治めてくれるよう。』(M24.05.14)
『さあ/\尋ねる事情/\、身上に迫る処、尋ねる。尋ねるからは一つ諭しよう。よう聞き分け/\。この道は、常々に真実の神様や、教祖や、と言うて、常々の心神のさしづを堅くに守る事ならば、一里行けば一里、二里行けば二里、又三里行けば三里、又十里行けば十里、辺所へ出て、不意に一人で難儀はさゝぬぞえ。後とも知れず先とも知れず、天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に。二人三人寄れば皆皆話し、今までは、わしはこんな心で居た、俺はこんな心使うて来た、と皆んなめん/\の心通り、言わしてみせる。神の自由自在、よう聞き分け/\。案じる事要らん/\。こういうさしづあったと、皆々の処へ伝えてくれ。一人や二人のさしづやないで。皆々伝えてくれ/\。』(M20.04.03)
『さあ/\尋ねる事情/\/\、辺所たる事情運び、一つ真実以てだん/\運び、心を運び事情、一つのさいどういう事と思う/\であろ。だん/\遠く事情運ぶ事情、めん/\いかなる事情も受け取る。事情はどういう事でなる。この心の理一寸に分かろまい。めん/\不足思わく事情一時堪えられん。よう/\の事情治まり、所々運ぶ。どういう事であろ。折角事情楽しみ無い。事情聞き直し、辺所身の事情いんねん。世界にはいかなるもある。運ぶ処綺麗、すっきり人間生まれ更わり聞き分け。事情いんねん世界の事情に取り直せ。よく聞き分け。身の処、何ぼでも未だ分からん。十分世界の道事情、一つの道の理を以て、身上の処は一時どうという事はない。難しい中、幾日の日国許へ、余儀無き道じゃあろまい。めん/\これだけ事情運び、皆それ/\へ映るいんねんという。世上の理を改めくれるよう。急いで話し、十分の理を諭してくれるよう。』(M24.07.05)


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