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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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 心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇つて、本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。かかる心遣いをほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他に及ぼして、世の中の平和を紊すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うようにと諭されている。
 このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしよこれきらい」と戒められている。
 親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、しるしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導かれる。

 せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
 神がほふけやしかとみでいよ      三 52

 めへ/\にハがみしやんハいらんもの
 神がそれ/\みわけするぞや      五  4

 めへ/\の心みのうちどのよふな
 事でもしかとみなあらわすで     一二 171

 これみたらどんなものでもしんぢつに
 むねのそふちがひとりてけるで   一二 172

 即ち、いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなつて、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれと悟り、すべて、現れて来る理、成つて来る理をよく思案するならば、自と、心のほこりを払うようになる。かくして、ほこりさえ綺麗に掃除するならば、あとは珍しいたすけに浴して、身上は、病まず弱らず、常に元気に、守護頂ける。

 ほこりさいすきやかはろた事ならば
 あとハめづらしたすけするぞや     三 98

(天理教教典第七章かしもの・かりもの より)
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 人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。 (明治二二・二・一四)

 自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、自由自在という。 (明治二一・一二・七)

 即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。
 しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく己一人の苦楽や利害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心にもとる心を遣いがちである。親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて戒められている。
 元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、いつしかうずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り除きにくくなるものである。

 よろづよにせかいのところみハたせど
 あしきのものハさらにないぞや     一 52

 一れつにあしきとゆうてないけれど
 一寸のほこりがついたゆへなり     一 53

(天理教教典第七章かしもの・かりもの より)
 たいないゑやどしこむのも月日なり
 むまれだすのも月日せわどり     六 131

 人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたものでもなければ、銘々の力で動かせるものでもない。すべては、親神の妙なる思わくにより、又、その守護による。

 にんけんハみな/\神のかしものや
 なんとをもふてつこているやら    三 41

 にんけんハみな/\神のかしものや
 神のぢうよふこれをしらんか     三 126

 この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治る。

 めへ/\のみのうちよりのかりものを
 しらずにいてハなにもわからん    三 137

 銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、つかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、

 人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つが我が理。(明治二二・六・一)

と教えられている。

(天理教教典第七章かしもの・かりもの より)
『さあ/\一寸の諭、銘々、一条の時やなけりゃどんならん。取りよが違うてどんならん。内々銘々信心の心受け取りてある。内々の処しっくり/\思う。銘々、この順序一つを治めて、道を伝うがよい。一時の処じっと心を見て居よ。』(M21)

「さあさあ、ちょっとの諭しをする。銘々、しっかり神一条の心にならなければどうにもならない。また受け取り方が違うようではどうにもならない。みな銘々の信心の心は受け取ってはある。しかし、かしものかりものの理をもっと深くしっかりと心に治めることが大事なことである。みんな、このかしものかりものの理と共に八つのほこりの理をしっかりと心に治めて道を伝えて行ってほしい。一時しっかり自分自身の心をみてみるがよいだろう。」

ひろ
『さあ/\よう聞き分け。どうせえこうせえは言わん。前々からの道もある。心次第そこにどうかの道がある。速やかという処すれば、裏から来るのも表から来るのも、よう遠く、いかなる銘々身の内、何遍聞いても聞き分け。銘々の処、身の処から話を聞いて、定めてからたすけに掛かれば、案じは無い。』(M21)

「どうせいこうせいとは言わない。すべての身上事情の原因は、前生から持ち越して来たものもあるが、心の使い方一つが原因なのである。ゆえに、どのような原因から来ている身上事情であっても、しっかり、いんねんを自覚して、かしものかりもの八つのほこりの理を心に治め、誠の心を定めてからおたすけにかかれば、何も案じることはいらない。」

ひろ
『さあ/\尋ねる事情、尋ねるから聞かそ。一日の心が定まらん。こうやろかという一日の日が定まらん事では、一年の日も定まろまい。こうだろうかという心さえ治めることができないようでは、未だ/\旬が早い。一度連れ帰りて、又々旬を以て尋ね出るなら、一つのさしづという。』(M21)

「さあさあ、尋ねるから説いて聞かせるが、たった一日の日の誠の心を定められぬようでは、なかなか一年を越すことが難しいであろう。まだまだ旬が早いようであるから、しっかりと、かしものかりものの理を心に治めるように努力して、また旬をみて再び尋ね出るようにと。」

ひろ
『さあ/\いかなる処、よう聞き分け、見分けは第一。たあいも無い夢を見る。皆神の道である。成ると成らんと、どんと沈み切って、又ずっと勇み出る。順序の道を通って、ずっと道が付く。案じる事ならん。じっとする道もある。日もある。又ずっと盛んな日がある。誠は天の理や。変わらん事は、天然自然の道である。どういう夢を見るのも皆月日。尋ねは、分からんでない。内々の一つ/\治め/\。』(M21)

「さあさあ、如何なることもしっかり見分けなければならない。他愛もない夢を見るのも神様が見せて下さっているのであるから、何も案じることはいらない。。天然自然の順序の理をしっかり見極めて誠の心を治めることが最も大事なことである。一度どん底まで落ち切ってしまえば、あとはどんどん上昇してくるのが天の理なのである。如何なることを見聞きしても、誠の心でたんのうして心勇むように。誠は天然自然の道である。如何なる夢を見るのも、みな神様が見せて下さっているのである。尋ね出るのもわからないではないが、どんな日もある。成って来ることは、すべて天の理なのであるから、神様を信じ切り、どんと心を治め誠の心を貫き通してほしい。」

ひろ
『さあ/\尋ねる身上一つの処、尋ねる理を諭しよう。たすけ一条/\という内、この処より多くの中理をある。めん/\一名の処、天理王命と称する五十年前よりの道すがら分かり来てあるなら、早う身は発散。世界の処事情は話す。発散々々。どういう処理を聞かそうと、銘々五十年からの道でありた。銘々の処、又こうした理で救かったと。伝え話してあると。十分の伝え話である。』(M21)

「文章的には、わかりやすいおさしづだと思いますが、“天理王命と称する五十年前よりの道すがら”というところが難しいように思います。この“天理王命と称する五十年前よりの道すがら”というのは、“おやさまのひながたの道”であり、貧に落ち切られ、かしものかりものの理、心の八つのほこりを深く悟られて、すべての成って来る理を誠の心をもって、“たんのう”一つの心で喜び勇んで通り切られた“ひながたの道”のことであると思います。また後年、親神様と一心同体と成られて神の社として数々の奇跡をお見せになられ、たすけ一条の“をや”の心をお示しになられたことを申されているのだと思います。おやさまは、神様なのだから最初からなんのご苦労もなく五十年のひながたの道をお通りになられたのではないか?というふうにも考えられるのかもしれませんが。決してそうではなく、人間の身をもって長年お手本として“たんのう”の心を実践せられて、真に親神様と一心同体と成られたのだと僕は思います。我々は、人間なのだから神様であられるおやさまの真似な
んて出来ないというふうに考えがちではないかと思いますが、実際にその“ひながたの道”を実践なされて、神様おやさまと一心同体と成られたのが、愛町初代会長の関根豊松先生ではないかと僕は思います。」

ひろ
『さあ/\尋ねる処/\、第一一つのたんのうの理をある。成程たんのうさして、成程の処、又今にどう、先にどうという処、さしづしよう。今一時と言わん。心一つのたんのうの理を、たんのうさして、又々たんのうさして、たんのう一つ受け取る処ある。たんのうさせば、一日という日もある。』(M21)

「おさしづには“たんのう”という言葉が、頻繁に出て来ます。お道において、いかに“たんのう”が大事なことであるかということをお教えいただいていると思います。」

ひろ
『さあ/\尋ねる処/\、さあ/\身上一段の処、心得ん。さあ/\頼めども願えども、さあ/\よう聞き分けねば分からんで。十分定めにゃ分からんで。さんげばかりではないで。さあ/\尽せども運べども、一つの世界の処を見て案じる処は要らんで。いつの事やろう/\、案ぜ一つの処、心得てくれるよう。身の処で印無くば、案ぜるであろう。何も案ぜは要らん。身の処十分諭してくれるよう。』(M21)

「身上をいただいても、何も案じる必要はない。いくら頼んでも願っても、また、さんげし尽くし運びをしただけではだめである。かしものかりものの理をしっかり聞き分けて、またいんねん事情をしっかり聞き分けて、成程と十分心を定め、しっかりたんのうしてくれるようにと。」

ひろ


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