僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇に教えられている。
およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。子の行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有難さが身にしみる。 ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の理も見せられる。親神は、それを待ちわびておられる。 しんぢつに心さだめてねがうなら ちうよぢざいにいまのまあにも 七 43 いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ 一七 14 しんぢつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる 一七 15 (天理教教典第六章 てびき より) PR
なにゝてもやまいいたみハさらになし
神のせきこみてびきなるそや 二 7 せかいぢうとこがあしきやいたみしよ 神のみちをせてびきしらすに 二 22 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。 しかるに、親神の深い心を知らぬ人々は、ただ眼前の苦しみや悩みに心を奪われて、ややもすれば、あさはかな人間思案から、人を怨み、天を呪い、世をはかなみ、或は理想を彼岸に求めたりする。 にんけんもこ共かわいであろをがな それをふもをてしやんしてくれ 一四 34 にち/\にをやのしやんとゆうものわ たすけるもよふばかりをもてる 一四 35 一れつのこどもハかわいばかりなり とこにへたてわさらになけれど 一五 69 しかときけ心ちがゑばせひがない そこでだん/\ていりするのや 一五 70 (天理教教典第六章 てびき より)
人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む。親神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからである。
しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。 それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。 親神は、一れつ人間の親におわす。しかるに、人は、この真実を知らず、従つて、互にひとしく親神を親と仰ぐ兄弟姉妹であることも知らずに、銘々が勝手に生きているように思いあやまり、われさえよくばの我が身思案や、気ままな行をして、他の人々の心を傷つけ曇らし、世の親和を害ない紊しているばかりでなく、それがために、己れ自らの心をも傷つけ曇らせていることを気附かずにいる。 月日にハたん/\みへるみちすぢに こわきあふなきみちがあるので 七 7 月日よりそのみちはやくしらそふと をもてしんバいしているとこそ 七 8 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。 (天理教教典第六章 てびき より)
親神は、この約束により、人間創造の母胎としての魂のいんねんある教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰い受けられた。この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんねん、やしきのいんねん、旬刻限の理という。
この月日もとなるぢばや元なるの いんねんあるでちうよぢさいを 八 47 このはなしなんでこのよにくどいなら たすけ一ぢようけやうのもと 八 48 かくて、親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥として旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。これを、 このよふを初た神の事ならば せかい一れつみなわがこなり 四 62 せかいぢう神のたあにハみなわがこ 一れつハみなをやとをもゑよ 四 79 せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんというわさらにないぞや 一三 43 と教え、更に又、 月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから 一四 25 せかいにハこのしんぢつをしらんから みなどこまでもいつむはかりで 一四 26 このさきハせかへぢううハどこまでも よふきづくめにみなしてかゝる 一〇 103 と仰せられている。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であり、理想である。これを実現しようと、よふきづとめを教えて、たすけ一条の道をつけられた。よふきづとめの理は、実に、この元初りの真実による。 ちよとはなしかみのいふこときいてくれ あしきのことはいはんでな このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これハこのよのはじめだし (天理教教典第三章 元の理 より)
この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこたちのみこと 日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのである。
しかときけこのもとなるとゆうのハな くにとこたちにをもたりさまや 一六 12 思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをなされた。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。 月日にわせかいぢううをみハたせど もとはじまりをしりたものなし 一三 30 このもとをどふぞせかいへをしえたさ そこで月日があらわれてゞた 一三 31 親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えようとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの、元初りの約束に基く。 にんけんをはじめだしたるやしきなり そのいんねんであまくたりたで 四 55 このよふをはぢめだしたるやしきなり にんけんはじめもとのをやなり 六 55 月日よりそれをみすましあまくだり なにかよろづをしらしたいから 六 56 (天理教教典第三章 元の理 より)
『元の理』〔3〕
その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。 月日よりたん/\心つくしきり そのゆへなるのにんけんである 六 88 このよふのしんぢつの神月日なり あとなるわみなどふくなるそや 六 50 にんけんをはぢめよふとてたん/\と よせてつこふたこれに神なを 六 51 (天理教教典第三章 元の理 より)
かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。 その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。 (天理教教典第三章 元の理 より)
親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。
この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。 そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つつたなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこととの神名を授けられた。 (天理教教典第三章 元の理 より)
しかるに、この親心を悟らず、天地を無視し、己が力を過信して、我ままな心を遣い、得手勝手な行をしているのは、万一切を支配し、総てを見ぬき見透されている親神の眼から見れば、あたかも独り歩きする幼児のようで、これほど危いことはない。
どのよふなくどきはなしをするのもな たすけたいとの一ぢよばかりで 七 26 一れつのむねのうちよりしんぢつに はやくわかりた事であるなら 七 27 それからハ月日よろづのしはいする なにかよろづのたすけするぞや 七 28 親神は、これをあわれと思召し、種々言葉を尽して、一れつたすけの限りない親心を明かし、よろづいさいの真実を教えて、自由自在の珍しい守護を見せられる。 月日にハせかいぢううハみなわが子 かハいいゝばいこれが一ちよ 一七 16 親神は、人間の実の親にています。親神は、ただ一すじに、一れつの子供に陽気ぐらしをさせたいと望ませられ、教祖をやしろとして表に現れ、元初りのいんねんあるぢばにおいて、たすけ一条の道を啓かれた。 ぢばは、天理王命の神名を授けられたところ、その理を以て、教祖は、存命のまま、永久にここに留り、一れつを守護されている。 どのよふなたすけするのもしんちつの をやがいるからみなひきうける 七 101 実に、天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであつて、陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、この理をうけて、初めて成就される。 あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと (天理教教典第四章 天理王命 より)
たん/\となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ 三 40・ 135 この世は、親神の身体であつて、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に充ちている。そして、その恵は、或は、これを火・水・風に現して、目のあたりに示し、又、眼にこそ見えぬが、厳然たる天理として、この世を守護されている。即ち、有りとあらゆるものの生命の源であり、一切現象の元である。 実に、この世は、理ぜめの世界であつて、一分のすきもなく、いささかの遺漏もない。天地自然の間に行われる法則といわず、人間社会における秩序といわず、悉く、奇しくも妙なる親神の守護ならぬはない。 このせかい一れつみゑる月日なら とこの事でもしらぬ事なし 八 51 月日よりみなそれ/\とみさだめて 善とあくとをみハけするぞや 八 52 親神は、人の心はもとより、総てを見ぬき見透し、善悪共に見分けて、思召のままに守護されている。 にんけんのわが子をもうもをなぢ事 こわきあふなきみちをあんぢる 七 9 それしらすみな一れハめへ/\に みなうゝかりとくらしいるなり 七 10 このせかいなにかよろづを一れつに 月日しはいをするとをもゑよ 七 11 しかも、親神は、どこまでも、一れつ子供を愛撫される親にています。 (天理教教典第四章 天理王命 より) |
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