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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『道すがら』〔4〕

 ふうふそろうてひのきしん
  これがだいゝちものだねや  一一下り目 2

 親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

 いつ/\までもつちもちや
 まだあるならバわしもゆこ   一一下り目 5

 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそのままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。
 かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

(天理教教典第八章 道すがら より)
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 ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。

 みれバせかいがだん/\と
 もつこになうてひのきしん   一一下り目 3

 なにかめづらしつちもちや
 これがきしんとなるならバ   一一下り目 7

 少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきしんをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れぬ味がわかる。
 ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。
 ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

(天理教教典第八章 道すがら より)
 たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。
 日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

 なんでもこれからひとすぢに
 かみにもたれてゆきまする    三下り目 7

 やむほどつらいことハない
 わしもこれからひのきしん    三下り目 8

 身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

 よくをわすれてひのきしん
 これがだいゝちこえとなる   一一下り目 4

(天理教教典第八章 道すがら より)
 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもついたなら、ものの観方が変つてくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。

(天理教教典第八章 道すがら より)
 ひたすら、世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行ううちに、親神に守られ、その胸に抱かれて、自身もいつしか心は成人して、明るく陽気に救われて行く。
 よふぼくとしての丹精の效があらわれ、道を求めるものが、次第に相寄り相集つて、教会名称の理が許される。それは、なんでもという精神の理に許されるもので、よふぼくの役目は、ここに一段と光を添える。
 教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所である。その名称の理を、真によく発揚するには、ここに寄りつどうものが、ぢばの理に添い、会長を心として、心を一つに結び合うのが肝腎である。かくて、教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。
 されば、会長の使命は、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教の理を究め、心を治めて、道の先達となり、誠真実をもつて、人々を教え導くにある。かくて、その徳に薫化された人々の心は、自と成人し、共に和し共に結んで、教の実は挙げられて行く。

 しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに
 なにもこわみハさらにないぞや     三 77

(天理教教典第九章 よふぼく より)
 人は本来、己が力で生きているのではない。しかも、己が力で生きていると思い誤り易いのが人の常で、そこには、涯しない心の闇路があるばかりである。たすけとは、かかる人々に、親神の思召を取り次いで、その守護のまにまに、暗黒の境涯から光明の世界へと導くことである。
 まことに、この道は、心だすけの道である。心がたすかれば、身上や事情の苦しみ悩みは、自らいやされ、解決される。それは、親神の思召にそのまま添いきるからである。

 心さい月日しんぢつうけとれば
 どんなたすけもみなうけやうで     八 45

 よふぼくは、仮令、年限の理に浅い深いの相違があろうとも、教祖ひながたの道を慕い、ひたむきなたすけ一条の心から、あらゆる困難を乗り越え、温かい真心で、一すじにたすけの道に進むなら、何人でも、親神の守護を鮮かに頂くことが出来る。

 しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
 なにゆハいでもしかとうけとる     三 38

 わかるよふむねのうちよりしやんせよ
 人たすけたらわがみたすかる      三 47

(天理教教典第九章 よふぼく より)
遅くなりまして、誠にすみません!!m(__)m



 およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。それは、自らはげんで、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにをいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかつて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くところに、珍しいたすけの実が現れる。
 それは、見えた形の巧拙によるのではない。ただ、たすかつて貰いたいとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。即ち、己が力によるのではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。
 かくて、よふぼくは、さづけを取り次いで、病む人々にたすかつて貰うのであつて、自分がたすけの主ではなく、どこまでも、親神のよふぼくに外ならぬ。されば、よふぼくたるものは、日々、ひたすら己が心を治めて、曇りない天の理を映すことが肝腎である。銘々が常に、教祖のひながたをたどり、俗にいて俗に墮せず、進んで土地ところの手本雛型となつてこそ、真にその使命が全うされる。
 身上を病んで苦しむ者に、さづけを取り次ぎ、せんすべない事情に悩む者に、教の理を取り次ぐのが、よふぼくの進む道である。それは単に、あの痛み、この憂いを除くだけではなく、寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しんからたすけさせて貰うのである。

(天理教教典第九章 よふぼく より)
 かくて、引き寄せられて親里に帰り、別席順序を運ぶ。だんだんの席を重ね、話の理によつてほこりを払い、行を正すうちに、心は澄んで、たすかりたいとの願は、たすかつて貰いたいとの念となる。そこに、さづけの理が授けられて、心は生れかわる。さづけの理は、よふぼくたる銘々の心に授けられる天の与えである。このさづけの理が心に治つて、初めて、こうのうを見せて頂ける。

 精神の理によつて働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向かう。神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。 (明治三一・一〇・二)

と示されている。即ち、さづけの理を授けられたものは、日々常々の心遣いが大切である。さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮かな守護を下さる。

 たん/\とよふぼくにてハこのよふを
 はしめたをやがみな入こむで     一五 60

 このよふをはじめたをやか入こめば
 どんな事をばするやしれんで     一五 61

(天理教教典第九章 よふぼく より)
 たすけて頂いた喜びは、自ら外に向つて、人だすけの行為となり、ここに、人は、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これをよふぼくと仰せられる。
 親神は、一れつたすけの切なる思わくから、多くのよふぼくを引き寄せようと急き込まれる。

 一寸はなし神の心のせきこみハ
 よふぼくよせるもよふばかりを     三 128

 よふぼくも一寸の事でハないほどに
 をふくよふきがほしい事から      三 130

 この人をどふゆう事でまつならば
 一れつわがこたすけたいから     一三 85

 よふぼくには、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には、時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によつて、ひとしく、親神のよふぼくたるに変りはない。

 この木いもめまつをまつわゆハんでな
 いかなる木いも月日をもわく      七 21

 思えば、親神の類ない陽気普請に、よふぼくとして引き寄せられるのは、実に、道の子の幸である。しかし、心が直くなくては、折角引き寄せられても、役に立たぬから、親神は、時に応じ事に当つて、種々様々とていれをされる。これをしつかり心に治めさえすれば、身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。

 にち/\によふほくにてわていりする
 どこがあしきとさらにをもうな     三 131

(天理教教典第九章 よふぼく より)
 しかし、人間心のはかなさは、折角、てびきを頂いて、心を定めても、時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行をしたりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。
 神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了う。(明治三一・五・九)

と示されている所以である。故に、
 日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知らさにゃならん。(明治二三・七・七)

と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。この篤い親心を悟つて、益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂ける。
 かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。
 陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。

 しやんして心さためてついてこい
 すゑハたのもしみちがあるぞや     五 24

(天理教教典第六章 てびき より)


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