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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\身上一条尋ねる理上いかなる処、身の内一つ理上どういう事聞く。一つ精神治まる理ある。よう聞き分けねば、分かり難ない。誠一つ精神めん/\一ついかなる処事情、この理分かればいかなる処も分かる。身上世界の処分かる。あゝ不自由めん/\一つ心よう聞き分けてくれ。どうしてこうしてなりとも、十分に受け取る。
この理世界どういうこういう事情もある。誠というものは弱いものである。悪強うものでも、弱いものである。誠一つ天の理。長い道なら、長い心を落し付け。速やか。ほんに成程々々、いつ/\まで分からん。言葉を聞き身の内発散と、通しや。この理聞いて。』(M22.02.02 おさしづ)
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『さあ/\身上々々処、心得ん。いつ/\心得ん/\。一つ身処障り、心鎮めて一つ理十分理を運ぶ。一つ理聞いて成程理が十分理が治まれば、十分治まる。一つ理が治まれば、十分の理が治まる。見分け早く諭さにゃならん。生涯一つの席という。』(M22.01.30 おさしづ)
『さあ/\尋ねる処/\、さあ/\よう尋ねる処、身の処尋ねる処聞き取れよ。さあさあ聞き取れ/\。どういう事聞くという。身上事情ある。尋ね聞かさにゃならん。何か一つ心よう聞き取ってくれるよう。長らえ一つ事情これまでの事情一つ、だんだん理を引き出し、所々所々心一つ理という。一寸ほんにどういうものであろ。何か発散思うたる処、一つ理はどういうものであろ。速やか一つ理を聞き分け。暮れる道理の理、明日は夜明けたら嬉し、一つ心よう聞いてくれ。どういう事も神一条理、一つ理は無くてはならん。よう聞き分けくれ。一日の日はな、十分こうして立ち越え、愛想尽かさず/\、これまで一つ今蒔いたる処、前々蒔いたる理は生やさにゃなろまい。生やさにゃならん。一時一つ理を定めてくれ。治めたる理が治まるなら、一つ理は治め来る。切ない日道も楽しみ道もあって、運ぶ心受け取る処、身上処一寸どうであろ。いんねんいかなる事情治まるなら、身上直ぐと治まる。』(M22.01.21 おさしづ)
『さあ/\/\だん/\に運ぶ処尽す処、又一つだん/\の席をし、一日の日は生涯の心を定め。生涯の理なれば、席に生涯の理を諭しよ。さあどうせいこうせいは言わん言えんの理は、身は神のかしもの心一つは我がもの。その心にて日々通る。幾重の理は皆受け取りてある。その中に自由自在というは、何処にあるとは思うなよ。自由自在は皆銘々の心、誠一つの理が自由自在。誠は天の理、天の理なれば直ぐに受け取り直ぐに返やす。誠は一寸に弱いようなものや。なれども、誠は長い/\堅い/\ものや。又互いや扶け合いというは、日々常々尽す誠一つの理が人を救ける、救かる。』(M22.01.09 おさしづ)
『さあ/\尋ねる事情、内々の事情長らえての道、内々処、まあ/\長らえてだんだん一つには事情、内々治まる。早く一つ理聞き分け。一つ事情身の処不足なる。障りありて内々ならん事情世界人情も運ぶ。それ内々の事情という心の理ありて、鎮まり理、心に事情々々早く心改め。治まる一つ長らえての道。又身に事情ありて、一つの理速やかという日は、事情早く。心に事情あり、一つ身の障り速やかという以て、一つの席、何時なりと許そう。』(M22.01.11 おさしづ)
『さあ/\/\/\一手一つに、心々によりて尋ね来る。尋ね来るによりて理を聞かそ。いつにどうしょ/\思ても、旬々来んにゃ出けるものやない。皆んな揃うて、ずうと揃うて、一手一つの心に委せ置こ、さあ委せ置こ。』(M22.01.09 おさしづ)
『さあ/\/\尋ねる一条、身上一つ一時身上迫ったが、どれが違う一つの理は勤め果て、十分銘々心に掃くに掃かれん事情、何かの事情、安心々々。さあ/\上々掃くに掃かれん事情、何かの処心の事情の理も休まるよう前々一つの事情掃くに掃かれん事情、又それから又一つ心一つ早く休まるよう。又々の道を以て又一つ、一度よい二度よい三度幾度の処掃くに掃かれん事情、いんねんならば、世界の事情を見て、世界といういんねんの理も分かろまい。なれど、何でもと思う一つの理、いかなる事情たんのう事情、ならん事情掃くに掃かれん事情、事情は安心の事情たんのうの事情を、早く諭してくれるよう。』(M21 おさしづ)
『さあ/\/\/\よう聞き分け。さあ/\一つ/\小人々々皆々咳が出る/\。内内の処よう聞き分け。内々の小人処何程願えども速やかならん。さあ/\どうせにゃならん、こうせねばならんとは言わん。精神運ぶ処、よう聞き分け。内々の処、日々の処一日尽せば、一日の処千度に受け取る。小人の処現われる処、皆々案じる。そこで一つの理を聞き分けてくれ。一人の中子供もある。善もあれば悪もある。案じる事は無い。三日の間一つ/\速やか/\という処、又今日も一つ誠運んだ。又一つ結構じゃと、一つ/\結構な楽しみを。又楽しみやと思うて暮らすよう。』(M21 おさしづ)
『さあ/\/\いかなるも聞き分け。成程を聞き/\、理を聞き分けねば、身の処に何程の事も、この所拝み祈祷するやなし、世界は神の身体身の内かしもの、同じかりものならば同じ兄弟。そんならば親々の処事情運ばんならん。矢張り理を聞くのであろ。たんのうという処、たんのうという処誠である。誠は天の理である。どんな不自由の者もある。それ同じ兄弟。たんのうという処、これより外に何にも言う処無い。』(M21 おさしづ)
にをいがけ、おたすけを通して、神様が自分自身の因縁をお見せ下さることによって、よふぼくは自分自身の因縁の自覚をさせていただくことが可能となるのです。そして、自分自身の因縁を認識させていただき、心の埃を払いさんげをさせていただきます。
そうすることにより、心がだんだん澄み切ってくるようになり、おさづけの効能の理を見せていただけるようになってきます。それを、繰り返し繰り返しさせていただくようになると、おたすけさせていただく方が不思議と救かっていかれます。そして、その結果、神様が徳を授けて下さり、自分自身が救かっていくということになるのです。これが、“人を救けて我が身救かる”ということの真実なのです。

自分自身の癖性分や埃というものは、自分自身ではなかなか認識させていただくことができません。それゆえに、神様は道の路銀として“おさづけの理”を授けて下さっているのです。
この“おたすけ”を通して、自分自身の因縁をはっきりと認識させていただくことができ、初めて心の切り替えが可能となり、悪因縁を納消させていただくことができるようになって来るのです。これこそが、だめ(十目、駄目押し)の教えと言われる由縁なのだと、僕は認識させていただいています。

ひろ


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