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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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第三号つづき

03.128
一寸はなし神の心のせきこみハ よふぼくよせるもよふばかりを

03.129
たん/\とをふくたちきもあるけれど どれがよふほくなるしれまい

03.130
よふぼくも一寸の事でハないほどに をふくよふきがほしい事から

03.131
にち/\によふほくにてわていりする どこがあしきとさらにをもうな

03.132
をなじきもたん/\ていりするもあり そのまゝこかすきいもあるなり

03.133
いかなるのぢうよじざいのこのためし ほかなるとこでさらにせんぞや

03.134
いまゝでもためしとゆうてといたれど もふこのたびハためしをさめや

03.135
たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ

03.136
このたびハ神がをもていでゝるから よろづの事をみなをしへるで

03.137
めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん

03.138
しやんせよやまいとゆうてさらになし 神のみちをせいけんなるぞや

03.139
一寸したるめへのあしくもできものや のぼせいたみハ神のてびきや

訳)「ちょっと話〈するのでよく聞け〉。神の心の急込みは“よふぼく”を寄せる段取りである。〈今までにも〉だんだんと多くの立木があるけれど、どれが“よふぼく”であるか知れまい。“よふぼく”も少しぐらいではなく、多くの用材がほしいのだ。日々に“よふぼく”は“ていれ”をする。どこがわるいと思ってはならない。同じ〈ように見える〉木でも、だんだん手入れするものもあり、〈切り倒したまま〉横たえておくものもある。どのような自由自在(じゅうようじざい)〈のたすけも現わすところ〉のこの(今話題の“つとめ”にによる)試しは、ほかのところではしない。今までも試しと言って説いて来たけれど、もう〈今度の“かんろだい”の“つとめ”は〉試し納め(最後の試し)である。だんだんと何ごとについても《この世は神のからだ》である。これをよく思案してみよ。このたびは神が表へ出ているからよろづのこと(万事)を皆教える。めいめい(各自)の《身の内(体)は〈神の“かしもの”・人間にとっては〉“かりもの”》であることを知らなくては、ほか
のことは何もわからない〈ので、このことはまずしっかり心に理解して記憶せよ〉。思案せよ。病というものはない。神の“みちをせ”(道教え)“いけん”(意見)である。ちょっとした眼がわるいとか出来物とか、のぼせや痛みなどは、神の“てびき”(手引き)である。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
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