僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
第三号つづき
03.059 いまゝでハなにをゆうてもみへてない もふこのたびハせへつうがきた 03.060 これからハよふきづとめにまたかゝる なんの事やら一寸にしれまい 03.061 今までもしりてはなしてはなしとも といてあれどもなんの事やら 03.062 これまでハいかなはなしをといたとて ひがきたらんでみへてないぞや 03.063 これからわもふせへつうがきたるから ゆへばそのまゝみへてくるぞや 03.064 しかときけ三六二五のくれやいに むねのそふぢを神がするぞや 03.065 しやんせよなんぼすんだる水やとて とろをいれたらにごる事なり 03.066 にごり水はやくすまさん事にてわ しんのはしらのいれよふがない 03.067 はしらさいはやくいれたる事ならば まつたいしかとをさまりがつく 訳)「今までは何を言っても見えて〈実現して〉ないが、もうこのたびは〈実現すべき〉“せつ”(時節)が来た。これから“よふきづとめ”〈の段取り〉に再びとり掛かるが、どういうことかちょっとには分からないであろう。今までも{知りて話して話する}と説いてあるが、これも何のことか分からない〈でいずんでいる〉。〈それも無理はないので〉これまでは、どんな話も説き聞かせたが、その日が来ないので〈話の通りに〉実現していない〈から〉。〈しかしもう〉これからは時節が到来したので、言えばそのまま実現して来る。〈その例を予言しておくから〉しっかり聞いておけ、{三六二五の暮合いに胸の掃除を神がする。}思案してみよ。どれほど澄んだ水でも、泥を入れれば濁る。濁り水を早く澄ましてしまわないことには、“しんのはしら”の入れようがない。〈心を澄まして〉“はしら”を早く入れたことなら、末代にまでしっかり治まりがつく。」 注)三六二五の暮合いに………は、立教三十六年、陰暦明治六年十月二十五日と推定されていて、その日に信者が来てお屋敷の掃除をしたということだそうです。それは、今日でいう“ひのきしん”としての珍しい出来事として当時のお屋敷の人々に受け取られたが故に伝えられたと思われるとありました。(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照) PR ![]() ![]() |
最新コメント
プロフィール
HN:
ひろ
性別:
非公開
フリーエリア
|