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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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 人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。 (明治二二・二・一四)

 自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、自由自在という。 (明治二一・一二・七)

 即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。
 しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく己一人の苦楽や利害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心にもとる心を遣いがちである。親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて戒められている。
 元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、いつしかうずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り除きにくくなるものである。

 よろづよにせかいのところみハたせど
 あしきのものハさらにないぞや     一 52

 一れつにあしきとゆうてないけれど
 一寸のほこりがついたゆへなり     一 53

(天理教教典第七章かしもの・かりもの より)
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