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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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明治三十七年秋―東京郊外の静かな羽田村糀谷(今の東京国際空港の辺)は代々日蓮宗が盛んで道の付かないところであった。農夫臼田弥四郎の家では六十二歳の妻ことが五年も肋膜を患い、病床で呻いていた。掛かり付けの川崎の菱沼という町医者から、「もうわしの手に負えん…東京のええ医者にわしが頼んどくがな…そこへ入院させてくれんかな…」と手離された。「えらく金がかかりますでしょうが…」とためらいながらも、「それじゃ先生…お願いします…」と夫、その弟又五郎は同意した。弟は早速病人を運ぶ戸板を用意した。弥四郎は奥の間に臥せる妻の床へ行った。「おこと…苦しいか…お前東京のええお医者へ行くんだ…心配することあねえよ…」と話すが、病人は、「おらぁ嫌だ…町の病院は嫌えだ…ここで治してくんろ…」と拗ねた。その時、楽しそうに跳ねながら帰ってきた孫の次郎が、戸板に乗せられた祖母を見て、事情を聞くや、「お婆ちゃん…連れて行くのは嫌だ!」と泣き付いた。その日近村の奥島宅は神様の祭典日で関根豊松先生が来ていた。まだ二十四歳の血
気盛んな青年だった。弥四郎の長男弥八は、母の重病を助けて頂こうと町田某に誘われ奥島家で先生に会った。早速翌日先生は臼田家を訪れた。道々、町田は心配そうに、「先生…この村は法華宗でして…天理教は猛反対なんですよ…」と言うと、「そうかい…そいつは面白いな…豊松身を捨ててもこの村に教祖の道を付けよう…」と先生は答えた。二人が家に入ると弥八は言った。

つづく
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