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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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  きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん         一  6

 人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。
これが、人間の元のいんねんである。
 しかるに、人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。

 世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある。 (明治二八・七・二二)

 およそ、いかなる種子も、まいてすぐ芽生えるものではない。いんねんも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の理を見せられることもある。己一代の通り来りによるいんねんならば、静かに思い返せば、思案もつく。前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。
 親神が、種々といんねんを見せられるのは、それによつて人々の心を入れ替えさせ、或は勇ませて、陽気ぐらしをさせたい、との篤い親心からであつて、好ましからぬいんねんを見せられる場合でさえ、決して、苦しめよう困らせようとの思召からではない。いかなる中も、善きに導かれる親心にもたれ、心を治めて通るならば、すべては、陽気ぐらしの元のいんねんに復元されて、限りない親神の恵は身に遍く、心は益々明るく勇んで来る。
 人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。
 即ち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我の理であることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる場合にも、教祖ひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける心で通るのが、道の子の心がけである。そこには、自他の心を曇らす何物もなく、ただ、親神の思召のままに生活させて頂き、連れ通り頂いている喜びがあるばかりである。

  このよふハ一れつハみな月日なり
  にんけんハみな月日かしもの          六 120

天理教教典第七章『かしもの・かりもの』より)
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