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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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第八章『道すがら』
 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、《かしものの理》もよく胸に治り、心の“ほこり”も次第にぬぐわれ、“いんねん”の悟りもついたなら、ものの観方が変ってくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活するのが、道の子の歩みである。この心の治め方を《たんのう》と教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成って来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえって喜びに転じてくる。かくて、真に《たんのう》の心が治れば、前生の“いんねん”は納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。
 《たんのう》は、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟って、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが“節”となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。

つづく
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