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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『何か心に承知した処、成っても成らいでも運び切らにゃならん。心に治めた理なおざりというは、何かなろまい。』(M33、10、6)

会長さんから話を聞いたり、また、おたすけ体験談の講話を聞いたりすると、ああそうか、よしやるぞ、と気持ちが盛り上がってくる。こうしたとき、あらためてそれまでを振り返るとともに、これからこうさせていただこう、こういう心で通らせていただこう、などと心に決めることがしばしばである。ところが、そうして心に決めたことも、いつしか忘れてしまっていることが多い。なぜ忘れるのか。ご守護を頂いて、喉元の熱さを忘れるからである。また一つには、あまりにも結構すぎるからである。暮らし向きに大した変化が現れてこないからである。いいかえれば、神のご守護とは枯木に花が咲くようなことと思っているからであろう。
大切なことは、心に治めたことを、成っても成らいでも運びきることである、といわれている。それをなおざりにするから、成るものも成ってこないのである。
ものごとが成ってくるというのは、親神様のご守護、はたらきがあればこそである。それを自らの都合に合わせて、少しやってみて、何も変化がない、何も成らない、などと思ってしまう。与えられた仕事、御用でも同じことである。
「何か受け持ったら十分働き、めん/\一つ理立てるが真の誠」と仰せられる。十分に働いて、そこに親神様の思いを常に心において、運びきっていく、それが真の誠なのである。また「真実は神が働く。神が働けば、後にそうであったなあと楽しむは道」とも仰せられる。
人間の真実に親神様がはたらいてくださる。そうした道中を通る中に、振り返って、あのときはこうであったと思い出され、楽しみ溢れる暮らしが生まれてくる。陽気ぐらしは、私たちの日々常の歩みの足元にある。(『今日は晴天、今日は雨』 安井幹夫著 道友社刊より)
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