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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。
これは、「人間(じんかん)万事(ばんじ)、塞翁(さいおう)が馬(うま)」と読み、「人間(世間の)万事(すべての出来事は)、塞翁が(さいおうの)馬(うまの如し)」という意味です。ちなみに「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。

城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福(ふく)から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福(ふく)へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものであるという事です。また、「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」という格言とも同じような意味合いです。

※天理的に本当の意味においては、人間には前生の因縁というものがあり、神様はその人の因縁に応じて、一見不幸や辛い生活及び事故や病気を通して、心の入れ替えを促し、悪い因縁を納消させて善い因縁に切り替えていただいているということを表した見事な格言であり『天理』であると思います。又、その他にも諺(ことわざ)や古くから言い伝えられている格言なども、やはり『天理』を表していると思われます。
特に、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という格言がありますが、これを『身を捨ててこそ立つ瀬がある』というふうに、愛町分教会初代会長関根豊松先生が、よくおっしゃられていたようです。
後、「情けは人の為ならず」、「人事を尽くして天命を待つ」、「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」ということなども、ゆらぐことのない『真理 』であり、『天理』なのだと思います。(^0_0^)

ひろ

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