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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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第四号つづき

04.111
このよふを初てからになにもかも 上ゑをしへた事ハあるまい

04.112
このたびハなにかよろづを上たるゑ しらしてをいた事であるなら

04.113
それからハなかにハしやんするもあろ みなよりよふてはなししたなら

04.114
そのなかにしんぢつ心たのもしい をもてしやんをするものもある

04.115
このみちを上ゑとふりた事ならば 神のぢうよふすぐにあらわす

04.116
このよふを初た神のぢうよふを みせたる事ハさらにないので

04.117
なにゝてもしらんあいだハそのまゝや 神のぢうよふしらしたるなら

04.118
これきいてみな一れつわしやんせよ なにかよろつハ心しだいや

04.119
けふの日ハなにがみへるやないけれど 六月をみよみなでかけるで

訳)「この世を初めてからのことは何も彼も〈まだ〉上へ教えたことはないであろう。このたびは何でも皆上たる者へ知らせておいたなら、それからは、なかに思案をする者もあろう。皆が寄り合って話をしたら、なかには本当に心に頼もしい〈話である〉と思って、思案をするものもあろう。この〈話の〉道を上へ通じたならば、神の自由(じゆうよう)〈自在の“たすけ”〉を直ぐに現わす。この世を初めた神の自由〈自在の“たすけ”〉を見せたことはなかった。〈それ故〉何も知らないで過ごしているが、神の自由〈自在の“たすけ”〉を知らせてやったなら〈そのままにはしていられない〉。これを聞いて、みな一れつ〈の人々〉は思案しなければならない。〈これと同じように〉何でも心次第である。きょうの日は、まだ何も見えて(実現して)いないが、六月をみよ、みな出て来る。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
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