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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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第四号つづき

04.040
いまてハなみなの心とうちなるの 心かをふいちがいなれども

04.041
あすにちハなんでもたのみかけるでな 神のいぢよにつかねばならん

04.042
にち/\にみにさハりつくとくしんせ 心ちがいを神がしらする

04.043
めへ/\のみのうちよりもしやんして 心さだめて神にもたれよ

04.044
なにゝても神のをもわくふかくある そばなるものハそれをしらすに

04.045
けふまでハなによのみちもみへねども はやくみゑるでしやんさだめよ

04.046
このみちをはやくしらそとをもへども さとりがのふてこれがむつかし

04.047
たん/\とふでにしらしてあるけれど さとりないのが神のざんねん

訳)「今では、皆の心と“うち”なる者の心が〈神の心と〉大きな違いであるけれども、あすには〈きょうの心を忘れて〉なんでも神一条(神の話)につかねばならない。〈これをよく頼む。そのため神は“てびき”をするから〉日々に身の障りがついたら、心違いを神が知らせるので〈神の言うことを〉得心せよ。〈それには〉めいめい(当人)の身のうち(からだの病気)から〈心違いを〉思案して、心定めをして神にもたれよ。なんでも神の思惑は深く(遠くまで見透した上で)ある。“そば”なる者はそれを知らずにいる。きょうまでは〈この道について〉どんな話をしても、その道は見えなかったが、〈あすからは〉早く見える。思案〈して心を〉定めよ。この〈先の〉道を早く知らそうと思うけれど、悟りがないので、これが(これを説いて聞かすのが)難しい。だんだんと(順序を追って)筆に〈書いて〉知らしてあるけれど、悟れないのが神の“ざんねん”〈に思うところである〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
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