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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『………どうで生まれ更わりの理があるによって、もう“たんのう”はっちゃ受け取る処無い。事情日々の処運ぶなら、何案じる処無い。』(M31、2、4)

生まれ更わりの理があるから、どんな中も“たんのう”しか受け取るところはない。日々“たんのう”して通るならば、何も案じるところはない。(「事情さとし」深谷忠政著 養徳社刊より)

“たんのう”とは、いかなることであっても「成ってくる理」を素直に受け入れて『十分満足する!!』ということであります。
これには、生まれかわりの理を悟り、しっかりと『因縁の自覚』をさせていただくことが必要だと思います。
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『………元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教(おしえ)には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。手余りを救けるのは誰も何とも言うまい。』

※このお道の御教えの本質は、親神様の教えの理によって、医者の手余りの身上やどうにもならない事情を救けてくださる道であります。
そして、『心だすけ』、即ち「“いんねん”納消」が主眼であり、病の元や様々な苦しみの根を切り、人間を芯(魂)から救けて下さる道なのであります。
『神は隔て無いで/\。しっかり聞き分け。さあ/\聞き分け。内も外も同じ理や。人間は“かしもの”や/\と聞かしてある。世界にはいかなる事も皆映してある。それ世界に映る。世界は鏡や。皆々めん/\心通りを身の内へ皆映る。前生の事もどうなるも、皆身の内へ映すと聞かしてある。“たんのう”と。いかなるも“たんのう”と。』(M22、2、4)
『“さしづ”はいつとても変わらん。一度の諭に生涯の理まで諭してある。理のある限り神の“さしづ”の理は変わらん。………何が間違う、こうが間違うと思う心が間違う。………皆分からんで、日々苦労して居る。それはどうしたさかいにどう、こうしたさかいにどう、という理は無い。医者の手余り捨てもの救けるが、神の“たすけ”という。』(M29、5、1)

医者にかけたからどうとか、かけなかったからどうとか、人間思案は必要がない。あれこれ案じ心がわくゆえ、皆、心で苦労しているが、医者が見放したものを救けるのが“神のたすけ”なのであるから、“さしづ”通りしっかり心を定めて神様に凭れ切って、誠真実を尽くしておたすけさせていただくという心が大事なことである。
今日で、このブログが満一歳になりました!!

今日は、教祖(おやさま)のお言葉から、八つのほこりの取り方、はらい方を思案させていただきたいと思います。

「『八ツのほこりを取るのは、たやすいものやで。この障子の建て付けが、柱もまっ直ぐなら、障子もまっ直ぐで、ぴたりとそうやろ。けれども、敷居のみぞに一粒の豆でもあったら、建て付けがそうまい。そんなものやで。この豆さえ取ったら、よう合うのや。八ツのほこり取るのは、この豆取るようなものやで。六ケ敷い(難しい:ひろ)ことはないで。』(正文遺韻抄 二五四ページ)」(『しあわせを呼ぶ心』尾崎栄治著 善本社刊より)

…という教祖のお諭しがありますが、ここでいいます「豆」というのは、「我が身可愛い」(自分さえよかったらいい)という“欲や執着の心”であると思います。

また、以前の記事でも書かせていただきました〈『つかんでいるその手を放す①』〉〈『つかんでいるその手を放す』②〉にあるように『つかんだその手を放す』ということも、同じように“八つのほこり”を取る一つの方法だと思います。
つまり、「自分のものだと思って、一生懸命つかんでいるその手を放す」ことにより、“欲”や“執着”から解き放たれて、“ほこり”をはらうということに繋がるのだと思わせていただいています。
『人は一代名は末代、と、これ伝えたる。真実は誠、実(じつ)である。実は世界、又道と言う。実あれば、どんな曇り被(かぶ)せようと言うて被せられん。真の理、天の理、天の理は曇り掛からん。よう聞き分け。前の掛かり、細々(ほそぼそ)理、泣き/\通り、それから心楽しみて、道に理があり、身に一つ余儀(よぎ)なく障り。障りから一つ聞かす。最初の理は元。後の道は無い。元の心無けにゃならん。元の心受け取りて理である。受け取りて理は、どんな剣(つるぎ)というとも、岩の中でも切れやせん。理は元の理、元の理は神の話す理。』(M29、8、22)

誰が何と言おうとも、実を積み重ね、天の理が頂ける人になることだ。陰ほど真実を尽くすことである。(『おさしづ一日一言』 渡部与次郎著 道友社刊より)
『何か順序これまで難儀不自由の道諭し置く。成程道は天然自然の理である。天然自然の理で治めるなら、どれだけ危ない所でも怖わい所でも、神が手を引いて連れて通る。天の綱を持って行くも同じ事。』(M33、2、11)
昨日の記事に対して、別のブログでコメントをいただきました。そのレスに大切なことを書かせていただきました。そのレスに少し手を加えて、今日の記事とさせていただきたいと思います。


人間の身体は“親神様からのかりもの”であり、一時も休まずに“十全の御守護”をいただいています。

人間は、朝目が覚めたら、呼吸が出来て、目も耳も鼻も口も両手両足なども、自由に動かすことができる。又、夜眠りにつき朝目覚めさせていただけるということを当たり前のように思っていますが、眠っている時に誰一人として呼吸を意識している人はいません。
又、起きている時でも、呼吸を意識したり、心臓や内臓の働きを意識して自分自身でやっている人はいません。
そして、手や足も自由に動かすことができて歩くということを、右足出して次に左足を出すなどと考えて歩いている人はいないと思います。
これらは、すべて親神様の十全の御守護をいただいているからこそ、可能なことなのであります。
そして、人間は、親神様のご守護なくしては、一秒たりとも生きてはいけないのです。

しかし、人間はあざないものでありますから、それらのことを当たり前のことだと思っているわけなのです。
もっとしっかりと心の目を開き、目が見える、耳が聞こえる、匂いもかげる、言葉も話せる、手足が自由に動かすことができる。
そして、呼吸もできる、食事もできるなどなど、すべては親神様のご守護があればこそ可能なことなのです。
それゆえに、「親神様から身体をおかりし、十全の御守護をいただいている」ということを、ほんとうに“有り難い”と深く感謝し喜ばせていただくことが大切なことなのだと思います。
人は望みが叶った時、欲しいものが手に入った時、有り難いと思うものである。
しかし、有り難いとは、有ることが難しいと書く。もしかすると、有り難いとは、望みが叶ったり、欲しいものが手に入ったから感じるものではなく、有ることが難しいということに気付けた時に、感じるものではないだろうか。
今、与わっているものを、当たり前に思っているが、与わらない人からすれば、羨(うらや)ましい限りである。もし、今、与わっているものが、無かったらと考えると、与わっているものを、有り難く思えるはずである。
有ることに慣れてしまった私たち、今一度身の回りの与わっているものに対して、有り難いことなのだと、気付ける努力をしてみてはどうだろう。(「ほっ」ますだまさよし著 善本社刊より)
『明らかな道運ぶなら、明らか。明らかな先々先々諭す理は、直ぐと利益見える。人々(にんにん)の義理を病んでは明らかな道と言わん。………いかなるも、さあ/\人間心混るというはどうもならん。早く治めてくれるよ。』(M24、7、5)


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