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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『どんな暗がりの中でも、心一つで通れる。どんな明るい中でも、心が無けりゃ通れようまい。………だん/\世界、幾重の道も出ける。誰がどうするでなし。自然と出来て来る。………どうでも連れて通る。連れて通るには、心に理が無けねばどうもならん。』(M24、5、29)
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『人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、澄み切る教(おしえ)やで。今までの修理肥で作り上げた米が、百石貰(も)ろたら、百石だけある間は食(たべ)て要らるゝ。今度無い世界を始めたる親に凭れて居れば、生涯末代の“さづけ”やで。これは米に諭して一寸(ちょっと)話して置く。』(M20、3、22)

(注)〔食(たべ)ての「食」は、口へんに食でしたが漢字がありませんでした。〕
『さあ/\、道の道なら、通さにゃならん。なれど長い道、これもしいかり聞いて置かねばならん。どんと心を定めて運ぶなれど、この道は、いつ/\の事であろうと思うて、退屈であろう。そこで、内の事、何よの事も、こうあゝと思うてする事は、どうせにゃならん、こうせにゃならんと言うて、“さしづ”は無い。さあ/\これも聞いて置かねばならん。立毛の育つも、この世始めも同じ事、無い人間を拵(こしら)えて、初めより、ものが言えたやない。一年経てば一つ分かる。又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、もの言うように成りたも同じ事。順序事情の道伝うて、何事も一つ/\分かる。道を伝うて、何事も一つ/\分かる。道皆ちゃんと決まりてあるのや程に。内々身の内障り付く。これを聞いて置かねばならん。』(M20、8、23)

この道は、神のつけた道であり、天然自然の道であるから、何事においても一つ/\順序を経て通っていかなければ、物事は成ってこない。
また、身上や事情を通して心の切り替えを促し、一歩/\成人へと導いて下さっている。
なかなかすぐには進歩しなくとも、一歩/\着実に前に進んでいれば必ず目的地に到達する。
この道は、必ず『陽気ぐらし』の世界へと到達できるように成っているのだから、しっかりと心を定めて、親神様おやさまを信じ切って凭れ切って、一歩/\前進させていただくことが大事なことだと思います。
『心という、毎々心に掛けて“あたゑ”という、理ある。“あたゑ”は急(せ)いて急かず。事情集まりてくれば“あたゑ”という。』(M30、6、26)

親が子を思う心は、寝ても覚めても絶え間のないものだと思います。おたすけ先に対しても、それと同じ心をかけてこそ、本当のおたすけでしょうね。
いくら心にかけても、わが身のこと、わが家のことは、なかなか思うようにならぬものです。それに対して、神一条のことは、不思議と思うようになるものです。だから、わが身、わが家なことは急がず、後回しにして、神一条のことを優先して急いでさせていただくと、うまくいきます。そのように続けているうちに、わが身わが家の方にも、だんだんとお与えが回ってくるようになります。
雨の降っているところに、一升マスと二升マスを並べて置けば、一升マスには一升、二升マスには二升、雨水がたまります。器の大小によって入る量が決まります。天の与えも、その人の器の大きさ、徳の大小によって決められていくものでしょう。
だから、徳の積み方についていろいろ勉強し、研究し、日々、徳が積めるように心を使い、体を使わせていただくことが大事になってきます。お金と同じように、徳も、ためるのには大変な努力が必要で、長い時間がかかるものですが、なくすのは一時の間です。うっかり落とさぬための研究もしなければなりませんね。(「おさしづに学ぶ」渡辺与次郎 道友社刊より)
『………生れ更わりの事情、“いんねん”の事情、世界の事情見て身の理を見にゃ分からん。重々の治まりは、いつ/\一つの治め方、第一育てる事情でどんな処も治まる事情、互いというを以て通ればどんな処も通れる。』(M23、3、3)

前生の生まれ更わりの“いんねん”によって、どんな人にも出くわすであろうが、世の中の事情を見て自分を考え、どんな人にもお互いに、“いんねん”ある人と思って育てていくところに治まってくる。(「事情さとし」深谷忠政著 養徳社刊より)
『………皆一名一人の理、生まれ更わり、いつの理に定めという。心得まで。いつにどうと定めたるもの、心の理によって洗い替え。いかなる理も、大難小難という理は、よく聞き分け。………』(M21、7、3)

皆それぞれ“いんねん”があり、いつ生まれ更わるかは親神が定めている。そのように定めているけれども、心の遣い方によって、洗いかえ長生き出来る。どんなことも親神が、大難は小難に連れて通っていることを、よく聞き分けるように。(「事情さとし」深谷忠政著 養徳社刊より)
『………そうしてどうじゃ、人間生れる“をびや許し”。それはどうじゃ/\、さあどうじゃ。“をびやさんしき”許す、それはどうじゃ。すっきりと今一時出来る、たゞ一つ出来て了う。すっきり常の通り/\。さあどうじゃどうした、常の通り産をして了う。常の通り毒は要らず。いつ/\すっきりいんじりとも動かず/\、僅かの日じゃで。皆世界一時、そのまゝ常の通り、これが第一“をや”人間始め証拠。………』(M22、9、23 刻限御話)
『何か心に承知した処、成っても成らいでも運び切らにゃならん。心に治めた理なおざりというは、何かなろまい。』(M33、10、6)

会長さんから話を聞いたり、また、おたすけ体験談の講話を聞いたりすると、ああそうか、よしやるぞ、と気持ちが盛り上がってくる。こうしたとき、あらためてそれまでを振り返るとともに、これからこうさせていただこう、こういう心で通らせていただこう、などと心に決めることがしばしばである。ところが、そうして心に決めたことも、いつしか忘れてしまっていることが多い。なぜ忘れるのか。ご守護を頂いて、喉元の熱さを忘れるからである。また一つには、あまりにも結構すぎるからである。暮らし向きに大した変化が現れてこないからである。いいかえれば、神のご守護とは枯木に花が咲くようなことと思っているからであろう。
大切なことは、心に治めたことを、成っても成らいでも運びきることである、といわれている。それをなおざりにするから、成るものも成ってこないのである。
ものごとが成ってくるというのは、親神様のご守護、はたらきがあればこそである。それを自らの都合に合わせて、少しやってみて、何も変化がない、何も成らない、などと思ってしまう。与えられた仕事、御用でも同じことである。
「何か受け持ったら十分働き、めん/\一つ理立てるが真の誠」と仰せられる。十分に働いて、そこに親神様の思いを常に心において、運びきっていく、それが真の誠なのである。また「真実は神が働く。神が働けば、後にそうであったなあと楽しむは道」とも仰せられる。
人間の真実に親神様がはたらいてくださる。そうした道中を通る中に、振り返って、あのときはこうであったと思い出され、楽しみ溢れる暮らしが生まれてくる。陽気ぐらしは、私たちの日々常の歩みの足元にある。(『今日は晴天、今日は雨』 安井幹夫著 道友社刊より)
『真実一つで難儀不自由の道を通りて、今日の日という。もうこれ長らえての道を通りて、艱難(かんなん)の道を知らずして、あんな阿呆(あほ)らしい事は措(お)いたらよいという。こうしたら勝手が良い。こうやれば良いと思えど、天の理でいかん。治まらんで。』(M22、9、16)
『“いんねん”という、これ聞き分けるなら、前生“さんげ”という。よく聞き分け。“さしづ”貰たなれど身上なあ。分からんから皆思う。………“いんねん”生まれ更わり、よう思案してみるがよい。しよと思うて成るものやない、しよまいと思うても成る理。これ聞き分け。又世界聞き分けて、いかにも成程と集まれば又暫くと言う。』(M26、7、18)


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