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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『“さづけ”を取り次ぎ、“たすけ一条”に励む時、心の“ほこり”はおのずから払われて、“陽気づくめ”の心と入れ替わり、人の心は成人する。成人は、理の御用を通してこそ、果たされる。』(真柱お言葉「万人のひながた」より)
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先にお道につかせていただいたものが、お世話をさせていただく方をお与えいただいた場合、その方を親神様おやさまからお与えいただいた“理の子供”と思い、自分自身が親となって、おやさまのお通りくださった“ひながた”の親心を真似て、“をや”のかわりをさせていただき、成人へと育てあげるのが“理の親”の役目なのであります。

そして、理の親信仰というような特別視するようなものはなく、すべてのよふぼくは、“にをいがけ・おたすけ”に励み、親の気持ちになって親心をもって、お与えいただいた“理の子”を丹精させていただくことが大事なとであると思います。
またその道中においては、“理の子”に見せられる因縁を我が因縁と心得て、しっかりと自分自身の“因縁の自覚”させていただき、“さんげ”及び“たんのう”させていただくことにより、お互いの因縁は切り替わりってゆくのであります。
これを『人を救けたら我が身救かる』ということになるのだと悟らせていただいているわけなのです。
昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖に伺ったところ、
「それは、前生の“いんねん”や。この子がするのやない。親が前生にして置いたのや。」
と、仰せられた。それで、親が、心から“さんげ”したところ、鮮やかな御守護を頂いた、という。
(教祖伝逸話篇 一七二より)
『苦しみの道通りてこそ立つ。大きく成る。これから、大き心を持ってくれにゃならん、持ってくれにゃならんの処、一々物を持って行て、どうとは出来ようまい。そこに一つの情愛という心ある。一人救けたら万人救かるという心持ってくれ。一人狂うたら万人狂う。成らん事せいとは言わん。一人救けりゃ万人救かるという理、心に治めにゃならん。何が違う。幾国何人あろう、元一所。子供、一人育てば皆々育つ。一人潰せば皆潰れる。………前々から、田の中、野中の事思うて見よ。神は嘘は言わん。教祖存命伝えたる。年限まで切って聞かしたる。これだけのもの、どれだけのもの、金持ったて世界に拡げられるような事はない。これは皆、神の守護。楽しみ中も違わん。楽の中に苦しみという。苦しみの処、通り抜けにゃならん。元々から大きものは無い。一年は一年、二年は二年、三年は三年の理、見えて無くば嘘である。そこで皆々心を持って、こうもせにゃならん、どうもせにゃならん、と、めん/\の心に持ってくれにゃならん。時聞き分けて談じ合い/\の心、水も漏れんよ
う十分運べば、神の守護と言う。神の守護は珍しきもの。』(M37.12.14)
『多くの中が難しい。多くの中に世界の道理、今一時人を毀(こぼ)つで“ほこり”が立つのやで。世上の道が狭く成る。人さえ毀たねば人の事を悪く言う事はない。人を毀つで、あちらからこちらから眺める。あの者この者が何でも実々の道を通るに、悪く言うたら善き道とも、“たすけ”道とも言うまい。日々の道を通ろうと思うては、人を毀ったり悪く言うてはどうもならん。人を毀って、何ぼ道を神が付けても、毀つから道を無いようにするのやで。(M23.2.6)
『論は一寸(ちょっと)も要らん/\/\/\。論をするなら世界の理で行け。神の道には論は要らん。誠一つなら天の理。実で行くがよい。』(M22.7.26)
『………天という見通しの理の上を越そと思うても、越さりゃせん。一人二人で足場無しで登れるか。よう思やんしてみよ。台という理分からねば、何処から登ろうと思うても登られん。………』(M31.2.27)
『何でも神の道は綺麗な道や。綺麗に聞かして満足、めん/\事情それ/\運ぶ処、満足治めにゃならん。』(M23.11.22)
温かいお母さんのような心(慈悲)と厳しいお父さんのような心(智恵)を兼ね備えた心!!

そして、決して腹を立てずに、一つのことにこだわらない(執着しない)心。

また、甘やかさずに、上から抑えつけずに我をはらない常に低い心。

そして、優しい言葉をかけ、決して愛想つかしをしない(切らない)でつないでゆく優しい心。

そして、決してうそをつかず、上面だけのついしょうは決して言わないという正直で素直な心!!

こういうような大きくて深くて広い心が、理の子をお与えいただいた“よふぼく”にとってのひじょうに大切な『親心』なのだとだと思います。
「皆さん方の中には、子育ての経験者も未経験者もおられるでしょうが、親というものは子供を育てる時、一人一人の性質や理解度をよく心得て、言葉を選び態度を変えて、子供が納得してくれることを願いながら、繰り返し躾けますね。これは、自分の血を分けた子供に対する親の立場から考えても理の関係をつけていただいたところの理の子に対するところの心得も、同じことだと思うのです。一つの方法が失敗に終わったからといって諦めるのは、“ひながた”にはないのであります。繰り返す努力というものは、“ひながた”をたどる我々には、“ひながた”によって十分教えていただくことはできても、一つの方法が失敗に終わったらもうそれでやめとけ、というような教えはないのであります。むしろ、繰り返す努力こそ、教祖(おやさま)の“ひながた”をたどる私たちの心の“ふしん”なのです。一度でだめなら二度でも三度でもどれだけ時間を費やしても、根気をもってし続ける。これは親が子供可愛い気持ちから、その子供の成人を願う時に払う親心を考えたならば、よく分か
るのであります。」(『真柱お言葉・万人のひながた』〔親心〕より)


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