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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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誤字訂正及び補完

03.147
二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす

03.148
高山のせきゝよきいてしんしつの 神のはなしをきいてしやんせ

03.149
にち/\に神のはなしをたん/\と きいてたのしめこふきなるぞや

第三号おわり

訳)〈明治七年〉二月二十二日の五ツ刻(午後八時頃)に話かける。“よろづいんねん”をみな説いて聞かせる〈と予告しておく〉。高山の説教を聞いて、この神の話を聞いて、〈比べて〉思案せよ。日々に神のする話を、だんだんと聞いて楽しんでいよ。これが“こふき”となるものである。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)

―――辻忠作が明治七年二月二十二日の夜の五ツ刻(午後八時)に参拝に来たが、それは、さらに一層の成人を願ううえから、昼間、激しい歯痛に知らせて、親神が手引きしたのである。そして、教祖より「よろづいんねん」の理、すなわち、人間創造の「元の理」の話から、辻忠作個人の“いんねん”の話まで、すべて説いて聞かせたのである(一四七)。
この親神の教える「よろづいんねん」の話と、高山といわれる神社・仏閣の神官・僧侶の説教とを比較した時、どちらが真実であるか、よく思案せよ。親神の話が真実であると納得できるだろう(一四八)。
信心というものは、日々に親神の真実話を聞き分けて、それを楽しみにして通ることが、末代にわたってたすかる台となるのである(一四九)―――。
辻忠作は、妹{くら}の精神の病をたすけられて熱心に信仰を始めましたが、家族の反対で頓挫し、そうするうちに{くら}の病が再発して、再び熱心さを取り戻した。と前に述べました。しかし、またもや信仰が途絶えていました。そして、数年経って、突然に歯が痛みだして、どうにもならなくなって教祖のもとを訪れた時に示されたのが、このお歌です。
「こふき」(一四九)とは、いついつまでも変わらずに語り伝えられていく、“たすけ”の台となる話ということでしょう。(「おふでさき拝読入門」矢持辰三著 天理教道友社刊より)

昨日の『おふでさき』の訳の「高山の説教を聞いて、この神の話を聞いて、〈比べて〉思案せよ。」のところの“この神”のところが、“この守”となってしまっていました。誤字をお詫びさせていただくとともに、また別の『おふでさき』の訳本から重要な部分を抜粋して追記させていただきました。m(_ _)m
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第三号つづき

03.145
いまのみちほこりだらけであるからに ほふけをもちてそふぢふしたて

03.146
あとなるハみちハひろくでごもくなし いくたりなりとつれてとふれよ

03.147
二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす

03.148
高山のせきゝよきいてしんしつの 神のはなしをきいてしやんせ

03.149
にち/\に神のはなしをたん/\と きいてたのしめこふきなるぞや

訳)「今の道は埃だらけであるから、箒をもって掃除する。そのあとの道は、広々としてごもく(芥[チリ])もない。幾人でも連れて通るがよい。〈明治七年〉二月二十二日の五ツ刻(午後八時頃)に話かける。“よろづいんねん”をみな説いて聞かせる〈と予告しておく〉。高山の説教を聞いて、この守の話を聞いて、〈比べて〉思案せよ。日々に神のする話を、だんだんと聞いて楽しんでいよ。これが“こふき”となるものである。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第三号つづき

03.140
いまゝでハ高い山やとゆうたとて よふほくみへた事ハなけれど

03.141
このさきハ高山にてもたん/\と よふぼくみだすもよふするぞや

03.142
いちれつにはやくたすけるこのもよふ 上下ともに心いさめで

03.143
にち/\にせかいの心いさむなら ものゝりうけハみないさみでる

03.144
なにゝてもたすけ一ちよであるからに むほんねへをはやくきりたい

訳)「今までは高い山といっても、“よふぼく”が見えてないが、この先は高山にもだんだんと“よふぼく”を見出す段取りをする。一れつに〈世界中を〉早くたすける〈ためにだんだんと話して聞かしている〉このもよう(よふぼくによる布教伝道)〈によって〉、上下共に心をいさまして行く。〈この“たすけ”一条の道によって〉日々に〈少しずつでも〉世界の〈人々の〉心がいさんで来るなら、作物の成育も盛んになる。なんでも“たすけ”一条で〈世界中をたすけて〉行って、〈世界の人々の心の中にある〉謀叛の根を早く切りたい。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第三号つづき

03.128
一寸はなし神の心のせきこみハ よふぼくよせるもよふばかりを

03.129
たん/\とをふくたちきもあるけれど どれがよふほくなるしれまい

03.130
よふぼくも一寸の事でハないほどに をふくよふきがほしい事から

03.131
にち/\によふほくにてわていりする どこがあしきとさらにをもうな

03.132
をなじきもたん/\ていりするもあり そのまゝこかすきいもあるなり

03.133
いかなるのぢうよじざいのこのためし ほかなるとこでさらにせんぞや

03.134
いまゝでもためしとゆうてといたれど もふこのたびハためしをさめや

03.135
たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ

03.136
このたびハ神がをもていでゝるから よろづの事をみなをしへるで

03.137
めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん

03.138
しやんせよやまいとゆうてさらになし 神のみちをせいけんなるぞや

03.139
一寸したるめへのあしくもできものや のぼせいたみハ神のてびきや

訳)「ちょっと話〈するのでよく聞け〉。神の心の急込みは“よふぼく”を寄せる段取りである。〈今までにも〉だんだんと多くの立木があるけれど、どれが“よふぼく”であるか知れまい。“よふぼく”も少しぐらいではなく、多くの用材がほしいのだ。日々に“よふぼく”は“ていれ”をする。どこがわるいと思ってはならない。同じ〈ように見える〉木でも、だんだん手入れするものもあり、〈切り倒したまま〉横たえておくものもある。どのような自由自在(じゅうようじざい)〈のたすけも現わすところ〉のこの(今話題の“つとめ”にによる)試しは、ほかのところではしない。今までも試しと言って説いて来たけれど、もう〈今度の“かんろだい”の“つとめ”は〉試し納め(最後の試し)である。だんだんと何ごとについても《この世は神のからだ》である。これをよく思案してみよ。このたびは神が表へ出ているからよろづのこと(万事)を皆教える。めいめい(各自)の《身の内(体)は〈神の“かしもの”・人間にとっては〉“かりもの”》であることを知らなくては、ほか
のことは何もわからない〈ので、このことはまずしっかり心に理解して記憶せよ〉。思案せよ。病というものはない。神の“みちをせ”(道教え)“いけん”(意見)である。ちょっとした眼がわるいとか出来物とか、のぼせや痛みなどは、神の“てびき”(手引き)である。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第三号つづき

03.120
いまのみち上のまゝやとをもている 心ちがうで神のまゝなり

03.121
上たるハせかいぢううをまゝにする 神のざんねんこれをしらんか

03.122
これまでハよろづせかいハ上のまゝ もふこれからハもんくかハるぞ

03.123
このよふをはじめてからハなにもかも といてきかした事ハないので

03.124
上たるハせかいぢううをハがまゝに をもているのハ心ちかうで

03.125
高山にそだつる木もたにそこに そたつる木もみなをなじ事

03.126
にんけんハみな/\神のかしものや 神のぢうよふこれをしらんか

03.127
いちれつハみな/\わがみきをつけよ 神がなんどきとこへいくやら

訳)「今の道を、上のまま(自由)と思っているが、それは心違いである。〈この世は神が治めているので〉神のままである。上は世界中をままにする。これを“ざんねん”と思う神の心を知れ。これまでは万事世界は上のままであった。しかしもうこれからは文句が変わる(ままにできない)。この世を初(創)めてから〈のこと〉は何も彼も説いて聞かしたことはないので〈神が守護していることを知らず〉、上は世界中をわが儘に思って〈ままにして〉いるのは心違いである。高山に育つ木も谷底に育つ木もみな同じことである(木に変わりはない)。人間〈のからだ〉はみな神の“かしもの”である。神の自由(じゅうよう)〈であること〉を知れ。すべての人はみなわが身を気を付けていよ。神がなん時どこへ行く(働きに出る)かわからぬぞ。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)

注)高山に育つ木=身分の高い人々、谷底に育つ木=身分の低い人々、ということで、身分の高低には関係なく世界一列すべての人間は平等の魂であり、すべて神の子(子供)なのであるということです。
苦しみ悩みのすべての原因は自分自身にある!!

自分自身が前生前々生においてつかってきた心づかい(前生前々生において蒔いた種)が原因なのである!!
これが、『白いカラス』の真意だということを再認識(悟る)させていただきました。

おたすけさせていただきたい相手をいくら変えようとしてもだめ!!
相手の姿をみて、自分自身がその心づかいを“さんげ”し、“たんのう”させていただくことによって相手は神様が変えて下さる!!ということを悟らせていただきました。

今日も、低い、やさしい、素直な心(=誠真実)で通らせていただきましょう!!

ひろ
今日は、ちょっとダウンしていました。(^^;)

『おかきさげ』

『さあ/\だん/\の席返す/\の席をして、さあ一日の日というは生涯の心一つの理を以って一つ席とす。席に順序一つの理は、よく聞き分け。席に順序一つの理は、生涯の理を諭す。生涯の理を諭すには、よく聞き分け。難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。受け取る中に、ただ一つ自由という一つの理。自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。日々という常という、日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。又一つ、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治ま
るという。それ世界成程という、成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という。よく聞き取れ。又一つ、これまで運ぶという、尽すという。運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。互い扶け合いというは、これは諭す理。人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。よく聞き取れ。又一つ、これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め。又一つ、第一の理を諭そう。第一には、所々に手本雛型。諭す事情の理の台には、日々という、日々には家業という、これが第一。又一つ、内々互い/\孝心の道、これが第一。二つ一つが天の理と諭し置こう。さあ、これより先永く変わらん事情に。』
みなさん、おはようございます!!m(_ _)m
今日は、ご本部の春季大祭です!!
たぶん、西地下礼拝場の身障者用トイレの少し前の方で参拝させていただいていると思いますので、もしよかったら声をかけて下さいね~!(^-^)v


第三号つづき

03.113
いまゝでの事ハなんにもゆてくれな 廿六日にはじめかけるで

03.114
これからハせかいの心いさめかけ にほんをさめるもよふするぞや

03.115
にんけんの心とゆうハあざのふて みへたる事をばかりゆうなり

03.116
これからハない事ばかりといてをく これからさきをたしかみていよ

03.117
どのよふな事もたん/\ゆいかける みへたる事ハさらにゆハんで

03.118
このよふをはじめた神のしんばしら はやくつけたい神の一ぢよ

03.119
めへにめん神のゆう事なす事を たん/\きいてしやんしてみよ

訳)「今までのことは、何も言ってくれるな。〈正月〉二十六日に初め掛ける。〈そのために〉これからは“せかい”の心を“いさめ”かけ〈るもようと〉、“にほん”を治めるもようをする。人間の心というものは浅はかで、〈眼の前に〉見えた事ばかり言う。これからは〈今までに〉ないことばかり説いておく。これから先〈にどうなるか〉をしっかり見ていよ。どんな事でもだんだん(順序を追って)言い掛ける。〈眼の前に〉見えている〈ような〉ことは決して言わない。この世を初めた神の“しんばしら”を早く〈据え〉つけたい。これが神の一条〈の話である〉。眼に見えない神の言うことすることをだんだん(順序を追ってよく)聞いて、思案してみよ〈、わからぬことはあるまい〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)
第三号つづき

03.101
にち/\に神の心のせきこみを そばなるものハなんとをもてる

03.102
上たるをこわいとをもていすみいる 神のせきこみこわみないぞや

03.103
むねあしくこれをやまいとをもうなよ 神のせきこみつかゑたるゆへ

03.104
たん/\と神の心とゆうものわ ふしぎあらハしたすけせきこむ

03.105
このふしきなんの事やとをもている ほこりはろふてそふぢしたてる

03.106
あとなるにはやくはしらをいれたなら これでこのよのさだめつくなり

03.107
このはなしはやくみへたる事ならば いかなものでもみなとくしんせ

03.108
いまゝでハしよこためしとゆへあれど かんろふだいもなんの事やら

03.109
このものを四ねんいせんにむかいとり 神がだきしめこれがしよこや

03.110
しんぢつにはやくかやするもよふたて 神のせきこみこれがたい一

03.111
これまでハぢうよじざいとまゝとけど なにもみへたる事わなけれど

03.112
これからハいかなはなしもときをいて それみゑたならじうよぢざいや

訳)「日々に神の心の急込みを、そばなる者は何と思っているか。上たる者を怖いと思っていずんでいるが、神の急込み〈について上を〉怖いと思うことはない。胸がわるい〈と言っている〉が、これを病と思うな。〈これは〉神の急込みがつかえた故〈神の守護ができなくなった結果〉である。神の心〈に考えていること〉と言えば、だんだんと(順序を追って)不思議を現わし、たすけを急込む〈ことである〉。この不思議は何のことかと思っているが、“ほこり”を払って掃除を仕立てる〈こと、それによってみなの心を澄ます〉ことである。そのあと早く“はしら”(かんろだい)を入れたなら、これでこの世の定めがつくのである。この話が早く〈実現して皆に〉見えて来たならば、どんな者でも〈神の言うことを〉得心をせよ。今までは証拠試しをすると言ってあるが、〈この話題になっている〉“かんろだい”についても、何のことであるかわかっていない(得心がいっていない)。〈今話題になっている〉この者(お秀)は、四年以前に迎い取り(出直させ)、神が抱きしめている
が、これが証拠になるのである。真実に〈思うことは〉早く〈この者を〉返す(生まれ返す)段取りが神の急込みの第一である。これまでは自由自在〈のたすけをする〉と何度か説いて来たが〈時節が来ないため〉何も見えた(実現して来た)ことはないけれど、これからはどんな話を説いておいても、それが見えた(実現して来た)なら、自由自在ということがわかる〈ので、神の話は必ず実現するものである〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)
第三号つづき

03.092
このよふハにぎハしくらしいるけれど もとをしりたるものハないので

03.093
このもとをくハしくしりた事ならバ やまいのをこる事わないのに

03.094
なにもかもしらずにくらすこの子共 神のめへにハいぢらき事

03.095
なにゝてもやまいとゆうてさらになし 心ちがいのみちがあるから

03.096
このみちハをしいほしいとかハいと よくとこふまんこれがほこりや

03.097
このよふのにんけんハみな神のこや 神のゆう事しかときゝわけ

03.098
ほこりさいすきやかはろた事ならば あとハめづらしたすけするぞや

03.099
しんぢつの心しだいのこのたすけ やますしなずによハりなきよふ

03.100
このたすけ百十五才ぢよみよと さだめつけたい神の一ぢよ

訳)「この世は〈一れつ人間は〉、賑わしくくらしているけれども、〈人間生活の〉元を知っている者はいないので〈人々は苦しんでいる〉。この元を詳しく知ったならば、病〈などの身上・事情〉の起きることはないのに。何にも知らないでくらしているこの子供が、〈神の眼には〉いじらしい。どんなことでも、病というものはない。病があるのは心違いの道があるからである。この道というのは、“をしい”・“ほしい”・〈“にくい”・〉“かわい”・〈“うらみ”・“はらだち”・〉“よく”・“こうまん”、これが“ほこり”〈であり、病の元となる〉。この世の人間はみな神の子であ〈り、神は“をや”(親)であ〉る。〈親である〉神の言うことをしっかり聞き分けて貰いたい。“ほこり”さえすっきりと払ったなら、そのあとは〈だんだんと様々の守護を教えて〉珍しいたすけをする。真実の心〈を受けとり〉次第にたすけるので、このたすけによって〈人間が〉やまず・死なず・弱りないようにしたい。〈また〉このたすけとは、百十五歳定命と定めたい。〈これは全く〉神の
心の一条〈に思う話である〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著参照)


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