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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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第四号つづき

04.021
けふの日ハいかなるみちとをもうかな めづらし事がみゑてくるぞや

04.022
だん/\になにかの事もみへてくる いかなるみちもみなたのしめよ

04.023
にち/\によふきづとめのてがつけば 神のたのしゆみいかほとの事

04.024
はや/\とつとめのにんぢうまちかねる そばな心わなにをふもうや

04.025
いかなるのやまいとゆうてないけれど みにさわりつく神のよふむき

04.026
よふむきもなにの事やら一寸しれん 神のをもわくやま/\の事

04.027
なにもかも神のをもハくなにゝても みなといたなら心いさむで

04.028
だん/\になにもをもハくときゝれば みのうちよりもすゝやかになる

04.029
またさきのよふきづとめをまちかねる なんの事ならかぐらつとめや

訳)「きょうの日はどんな道と思うであろうが、珍しいことが見えて来る。だんだんに何でも見えて来るので、〈きょうの日が〉どんな道であっても〈苦労の道を〉みな楽しめよ。日々に“よふきづとめ”の“手”ガ付けば、神の楽しみはどれ程か分からない。〈それ故〉“つとめ”の人衆を待ちかねているのである。“そば”の者は何を考えているのか。どんな病でも〈ただの〉病気ということはないので、身に障りが付くというのは、神の用向きがあるからである。〈この〉用向きも、何のことか簡単には分からない〈だろう〉。神の思惑は沢山ある〈ので、用向きも多い〉。〈それ故病で出て来たものには〉何でも神の思惑を説い〈て聞かし〉たら、心がいさむ。だんだんに(順序を追って)何でも思惑を十分に説き聞かせたら、身の内〈の障り〉もすずやかに(すっきりと)なる。またこの先には“よふきづとめ”を〈できるように〉待ちかねている。何のことかと言えば、“かぐらづとめ”のことである。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
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すみません!!m(_ _)m
訳が大幅に抜けていましたので、もう一度アップさせていただきます。m(_ _)m

第四号つづき

04.013
にち/\にみにさハりつくまたきたか 神のまちかねこれをしらすに

04.014
だん/\とつとめのにんぢうてがそろい これをあいつになにもでかける

04.015
にち/\の神の心わだん/\と 上の心にはやくみせたら

04.016
上たるわなにもしらずにとふぢんを したがう心これがをかしい

04.017
にち/\に神の心のせきこみハ とふぢんころりこれをまつなり

04.018
いまゝでのうしのさきみちをもてみよ 上たるところみなきをつけよ

04.019
これさいかみなみへきたる事ならば せかいの心みないさみくる

04.020
なにゝてもせかいの心いさむなら 神の心もみないさむなり

訳)「日々に身に障りが付いて(病気になって){また来たか、神の待ちかねているのを知らないで}〈というようになる〉。だんだんと(順序を追って)“つとめ”の人衆の〈役割通りに〉“手”が揃い〈“つとめ”をする〉。これが合図となって何か〈不思議なたすけ〉が出掛ける(現われる)。日々に神の心〈に急込んでいるの〉は、だんだんと上の心に早く〈この不思議なたすけを〉見せたなら〈ということである〉。〈しかし今の〉上たる者は〈神の心も、この世の真実も〉、何も知らずに“とうじん”(“から”の者)に従っている心が〈神からみると〉実におかしい。日々に神の心の急込みは、“とうじん”ころり(コレラ)〈が流行する旬〉を待っている。今までの牛〈コレラ〉の先ぶれを考えてみよ。上たる者は、〈次には人間のコレラが流行することに〉気を付けていよ。〈その旬になったら、不思議なたすけによって神の心もこの世の真実もわかるようになる〉。これ(不思議なたすけ)さえ皆見えて来たならば〈布教伝道がうまく行って〉、“せかい”(世の中の人々)の
心もみないさんで来る。なんでも“せかい”の心がいさむなら、神の心もいさむのである。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第四号つづき

04.013
にち/\にみにさハりつくまたきたか 神のまちかねこれをしらすに

04.014
だん/\とつとめのにんぢうてがそろい これをあいつになにもでかける

04.015
にち/\の神の心わだん/\と 上の心にはやくみせたら

04.016
上たるわなにもしらずにとふぢんを したがう心これがをかしい

04.017
にち/\に神の心のせきこみハ とふぢんころりこれをまつなり

04.018
いまゝでのうしのさきみちをもてみよ 上たるところみなきをつけよ

04.019
これさいかみなみへきたる事ならば せかいの心みないさみくる

04.020
なにゝてもせかいの心いさむなら 神の心もみないさむなり

訳)「日々に身に障りが付いて(病気になって){また来たか、神の待ちかねているのを知らないで}〈というようになる〉。だんだんと(順序を追って)“つとめ”の人衆の〈役割通りに〉“手”が揃い〈“つとめ”をする〉。これが合図となって何か〈不思議なたすけ〉が出掛ける(現われる)。これ(不思議なたすけ)さえ皆見えて来たならば〈布教伝道がうまく行って〉、“せかい”(世の中の人々)の心もみないさんで来る。なんでも“せかい”の心がいさむなら、神の心もいさむのである。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
04.001
いまのみちなんのみちやとをもている なにかわからんみちであれども

04.002
このさきハをふくハんみちがみへてある もふあこにあるこゝいきたなり

04.003
このひがらいつの事やとをもている 五月五日にたしかでゝくる

04.004
それよりもをかけはぢまるこれをみよ よるひるしれんよふになるぞや

04.005
たん/\と六月になる事ならば しよこまむりをするとをもへよ

04.006
それからハたん/\ふしんせきこんで なにかいそがし事になるなり

04.007
これからハ神の心ハにち/\に せきこみあるとをもいこそしれ

04.008
いかほどのをふくせきこみあるとても くちではなにもゆうでないぞや

04.009
このさきハをふくみへくる人ゞを はやくしらしてをことをもゑど

04.010
だん/\とめつらし人がみへてある たれがめへにもこれがみゑんか

04.011
これからのあとなるはなし山/\の みちをみていよめづらしきみち

04.012
をもしろやをふくの人があつまりて 天のあたゑとゆうてくるぞや

訳)「今の道は何の〈ための〉道と思っているか。何か分からない道のようであるが、この先には往還の道が見えている。あそこにある、もうここに来た〈というように早く出て来る〉。その日はいつかと思っているだろうが、五月五日に確かに出てくる。それからお蔭が始まる。夜昼知れんくらいに〈賑わって忙しく〉なる。だんだん進んで六月になったなら、証拠守りを作って出す予定である。それからはだんだんと“ふしん”(普請)を急込んで、とても忙しくなる。これから神の心は日々に急込みが〈つかえて〉、あるとよく知っていてくれ。どんなに多くの急込みがあっても、口では何も言わない〈で、神が働くということも承知していよ〉。この先は〈神の手引きによって〉多くの人が出て来るのが見えていると、早く知らしてやりたい〈と思っている〉が。だんだんと珍しい人が見えてある〈けれど〉、誰の眼にもこれが見えないか。これからあとの話〈をしておく〉。沢山の〈道程を経る〉道であるから、よく見ていよ。〈これは〉珍しい道である。〈やがては〉面白いではないか
、多くの人が集まって、{天の与え〈だ、頂きに行こう〉}と言って来る〈ようになる〉。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
『さあ/\もうこれ時代は何年の時代になりてあると思う。余程時代は長うなる。古い時代今のようなもの、古い時代の理がすっきり埋れ切ってある。今はずっと世界に“にをいがけ”、端から端まで届いてある。古い理埋れてはならん。古い“にをい”すたりてある。よう聞き分け。古い理からこういう理に成り立ってある。時世が変わりたようなもの。 世界は変わらぬ。元から変わりてはどうなるぞ。教の理に不足は無いもの。又有りてはならん。これまでの道は並大抵の道やあろうまい。年限相當(当)の理は見分けても居るやろう。この事情一寸には難しい。どんな悪風という、事情という、あゝ結構やと思うても、何時どんな悪風吹くとも分からん。世界の風は分からん。元ありての風は、吹かそうと吹かそまいと 自由自在。………遠慮気兼ありては隠し包みも同じ事、教一つの理に違うか違わんか察してみよ。』(M30.01.15)
『鏡“やしき”、四方正面の中でありながら、どうも一つの理に寄せ難くい、集まり難くい。又一人、又一人の理を混ぜるからどうも集まらん。寄せて了えば自由自在(じゅうようじざい)の働きをするわい/\。そもそもの心というは、つくねてあるもの、ばら/\にしたようなもの。………これより刻限の“さしづ”は台となりてくれにゃならん。乗った船なら乗り切らにゃならん。塀なら飛び越さにゃならん。火の中なら飛び込まにゃならん。』(M30.01.13)

※「‘つく’ねて」、は漢字ですが、変換できませんでした。すみません!m(_ _)m
『世界から寄り来る処を見れば分かるやろう。何を持って出て来たでない。これでこそ心の持ち寄り。どれだけ財産あるとて、真似は出来ようまい。銘々心の理を以て寄り集まる理である。これだけ年限尽した理は、治めにゃなろうまい。悪風の理に混ぜられんよう、悪説に誘われんよう、悪理に繋がれんよう。三つの理いつ/\混られんよう。両手運んでも、両足運んでも、一つの理が治められん。道の理皆考え。道を通してある。年限一時の理を集めて、どういう処も連れ帰る。今に何処からどんな事情現われるやら分からん。疑い心一つ洗うよりない。遠く所より胸三寸磨くより外にあろうまい。』(M30.01.12)
昨日、ある天理教関連の掲示板に投稿させていただきました記事ですが、ひじょうに重要なことだと思いますので、これを今日の記事とさせていただきたいと思います。

「なぜ?親神様は、人間。世界をおつくりになられたのでしょうか?」という質問に対して僕は、親神様は、『神人和樂の陽気ぐらしの世界』を建設するためにと答えさせていただきました。
すると今度は、「それではどうして、様々に苦しみ悩む人があるのだろうか?」というような内容の質問がありました。それに対して僕がお答えさせていただいたものです。


親神様は、『おふでさき』において、

12.088
月日にわどのよなものもわが子なり かわいばかりでみてハいれども

12.089
いまゝでハせかいぢううハ一れつに めゑ/\しやんをしてわいれども

12.090
なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので

12.091
これからハ月日たのみや一れつわ 心しいかりいれかゑてくれ

12.092
この心どふゆう事であるならば せかいたすける一ちよばかりを

12.093
このさきハせかいぢううハ一れつに よろづたがいにたすけするなら

と仰せられているように、人間を創造して『その人間が、陽気ぐらしをするのをみて、親子共々に楽しみたい』と思召されているのだと思いますが、人間にはたった一つだけ心の自由をお与えになられました。
親神様は、人間を創造されてから九億九万年は水中のすまい、陸上に上がり知恵を仕込まれて六千年、そして文字の仕込みから、天保九年まで三千九百九十九年と仰せになられています。
その間に、元々清水のように澄み切った人間の心(魂)が生まれ更わりを繰り返し、知恵がつき欲が出てくるにしたがって、泥水のような心(魂)になってしまい、それから約百七十年経っている現在においても、人間は“我が身思案”ばかりの心づかいが強いため、なかなか成人することができていない成人途上の状態にあるということなのだと僕は思案させていただいています。

それゆえに、人間の苦しみ悩みは、すべて“我が身うらみ”なのであるということになると思います。そして、それを解消するために天保九年に、親神様が教祖に入り込まれて解き明かされた教えが、『天理教のみ教え』なのであると僕は悟らせていただいています。

結局は、一個人の人間の苦しみ悩みや、国と国との争い、環境破壊、様々な地球上においての問題は、すべて人間一人一人の“我が身思案”、“我が身うらみ”が招いた姿なのであると思案させていただいています。

そして、親神様は、せっかく『神人和樂の陽気ぐらしの世界』を建設しようとされているのにも関わらず、人間自身が自らの“我が身思案”、“我が身うらみ”によって苦しみ悩んでいるのだ!!という結論になります。
『理の親』にならせていただくということは、おやさまの“ひながた”の道を万分の一でも通らせていただくという“心定め”をさせていただき、悩み苦しむ人々を“おたすけ”させていただく使命をお与えいただいたことだと、僕は認識させていただいています。

僕自身は、『理の親』さんに救けていただきました。
お道を通らせていただくには“道の案内人”が必須だと僕は思います。そして、それこそが『理の親』の役目であり勤めだと実感させていただいています。

良い親に当たるのも、悪い親に当たるのも、すべて自分自身の因縁次第だと思います。
また、同じ親であったとしても、ある人にとっては良い親、ある人にとっては悪い親となる場合もあり、子供の捉え方や悟り方で、まったく逆になってしまう場合もあると思います。

人間の肉体の産みの親にしても同じことであり、その子供によっては良い親とも、悪い親ともなってしまう場合があると思いますが、それと同じことで、『理の親』とは、《お道の信仰の上に産みおろしてくださった“親”》なのであると僕は悟らせていただいています。
そして、僕を教え導いて下さった『理の親』さんの心を引き継がせていただいて、“をや”のかわりをさせていただけるようなしっかりとした親として、親神様・教祖(おやさま)にお与えいただいた理の子を成人へと導かせていただきたいと心を定め、このお道を通らせていただいています。
《理の親》とは、親神様・教祖(おやさま)に救けていただいた人が、今度は、自分自身が“をや”のかわりとして悩み苦しむ人々を救け導く役目を与えていただいた人のことであります。
また自ずと救けさせていただく人のことは“理の子(子供)”ということになります。

これは、親だからえらいとか、子供は親の言いなりにならなければならない、などというものではなく、ただ先に救けられて悩み苦しむ人々を導くようになった人(親)とその人がお世話をさせていただくようになった人(子〔子供〕)という関係であり、親は親らしくしっかりと子供を導かせていただくことが、親神様・教祖への恩返しとしての道となり、一生懸命に勤めさせていただかなければなりません。

また、親となって子供を導く立場の人は、そのお与えいただいた子供をみて、しっかりと自分自身の“因縁の自覚”をさせていただかなければなりません。

これは、上下関係の親子という意味ではなく、お互いに救け合う姿であります。そして、お互いに拝みあう姿でもあり、これこそが『人を救けて我が身救かる』というお道における究極の姿(通り方)だと僕は思わせていただいています。


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