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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\よう聞き分けねば分からんで。話続きも、よう聞き分け。これまで道というも判然ならん。又々一寸々々参りしょう/\思て居る。ほんに成程参り/\始め掛ける。講元一人、所々何か処、取り集め、親と称え親と言うは、子供育てるも、いかなる道を通る。親の心真実道を知らせば親と言う。ほんに言われる親と夫婦同じ事、真実知らせん。身の内同じ道にて神の道聞けども、話聞き、今一時何とも彼とも分からん。よう聞け。分からんでない。講社講元寄るは親元へ寄るのじゃで。罪口説言うはほこり。』(M20.4)
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生まれたいっきの赤ちゃんは、お母さんやお父さん(親)がいなければ、決して一人では生きてはいけないだろうし、育つことはないだろうと思います。お乳を飲まし、おむつをかえ夜中にでも泣き出すとヨシヨシと言って抱き上げる。また、幼い子供は親の言動ややることなすことを見て育ってゆくもの、親が正しい心をつかい、その言動を手本としてちゃんとしたしつけをすることが重要となるのだと思います。

また、子供は“親”を選べないが、ちゃんとした前生の因縁の元に子供を授けていただくということで、本来はその神様からお与えいただいた子供をしっかりと成人へと導かせていただくのが“親”としてのつとめであるのだと思います。

またこれは、「お道の信仰の上」においても同様で、子供は、“親”が気に入らないからと言って、直接“をや”が預かって下さって育てて成人させて下さるということはありえないことなのだと思います。
そのために、正しい道を教え成人へと導く“をや”の代わりをさせていただく「お道の信仰の上」においての“親(理の親)”が必須となってくるのであります。
それで、神様が“をや”の代わりとして、魂の因縁の深い“理の親”という信仰の導き手(教え親)をお与え下さるのであります。

そして、自分が救けられて、今度は人様を導かせていただく“理の親”にならせていただいたとしても、決して偉そうにしたり高い心になってはならず、しっかりと“をや”の代わりをさせていただけるよう、自らの心を低くし、身を捨てて真剣に“理の子(子供)”を成人へと導かせていただかなくてはならないと思わせていただいています。

ひろ

『身を捨ててこそ、立つ瀬がある』

これは、愛町分教会初代会長関根豊松先生のお言葉ですが、これは、「我が身どうなっても、人様を救けずにはおかれない!!」という“たすけ一条”の強い強い精神の持ち方をお教え下さったものだと悟らせていただいています。

またこれは、『貧に落ち切れ』と親神様が教祖(おやさま)におっしゃられたお言葉と同様の意味があるものと悟らせていただいています。

『貧に落ち切れ』とは、ただ「あるものをすべて施して、貧しい人々の心を知りなさい」という意味だけではなく、「我が身を捨てて低い低い心になりなさい」という意味も含まれているものと思案させていただいています。

つまり、『身を捨ててこそ』ということは、「我が身を捨て切って低い低い優しい思いやりの深い心になって、どうでもこうでも苦しみ悩んでいる人々を救けずにはおられない!!」という精神を持つことが大切なのだということを教えて下さっているように思います。

ひろ
『………これまで艱難の道、今の道互いの道。辛い者もあれば、陽気な者もある。神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めん/\勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。』(M30.12.11)
『人間というは、一代と思うから頼り無い。理は末代の理。これをよう聞き分けて、しっかり治めてくれ。尽した理は、将来末代の理に受け取りてある。理消えやせん程に。理は十分の理である。これを楽しんで、一代の理に悔しいと思うやない。これをよう聞き分け。人間というは、早い者もあれば遅い者もある。どんな者もある。これを聞き分けて心に満足せい。“たんのう”が第一である。これを前生“いんねん”の“さんげ”と言う。』(M37.12.31)
『おふでさき』が第四号まで一段落しましたので、今日は、“理の親子”について少し書かせていただきたいと思います。

人間は、夫婦となり子供を授けていただいて、立派に成人させることが、神様からお与えいただいている役目だと思います。
そして、お道の信仰の上においての“親”にならせていただこうとするならば、なおさら真実の親心をもって“をや”の代わりをさせていただいて“子供”を育てさせていただかなければならないと思わせていただいています。

僕が、現在お与えいただいています“理の子”は、精神の身上ゆえに、心が毎日、あるいは朝昼晩、時には時間単位で、ころころと変化してしまうために、なかなか“おたすけ”の現状を書かせていただくことが難しいのですが、ここで、少しだけ“理の子”のことをお話させていただきたいと思います。

僕は、“理の子”にどんなむちゃなことを言われても、決して腹を立てないようにさせていただいています。
僕には、“はらだち”のほこりがうずたかく積もり重なっており、すぐに短気や癇癪を起こしてしまう人間でした。(^_^;)
しかし、“理の子”をお与えいただいてから、まったく腹が立たないようになりました。
どう考えても普通だったらキレてしまうようなことであったとしても、「ああ、これは僕自身の因縁を見せていただいているんだ、しっかり“たんのう”させていただこう。」と思うとぜんぜん腹が立たなくなりました。(というよりも神様がして下さいました。)

このことは、“理の子”自身も認めてくれていて、「先生(と呼んで下さっています)、今までたいがいのわがままやむちゃくちゃなことを言っても腹を立てられないようになりましたね!」と言ってくれています。
実は、彼とは30年来の付き合いで、昔の僕のことをよく知っている方なのです。

そして、最近、「僕は、はじめて有神論者になりました!!実は、つい最近までは、がちがちの無神論者だったんですよ!!」と言ってくれています。
「なんで?」と僕が聞くと、「四年間も痛くて痛くて医者に行って水を抜きまくってもらっていた膝の痛みが、ウソのように治りました。」と…。

また、以前も少しだけ書かせていただいていましたが、20kmくらい離れている家から、道も知らないのに、また、雨がざざぶりでメガネもくもってしまいまともに走れるような状況じゃなかったところを、危ないからと制止させていただいている僕の言葉をまったく聞かずに無理をおし通して、バイクで天理まで来たことがあります。
これは、後で彼が教えてくれたことなのですが、やっとのことで、天理に着いて○○の詰所はどこですか?と聞きに入ったところが○○の詰所だったと言うのです。

また、つい先日は、勝手をして月次祭にずいぶん遅れて来られのですが、今度は「確かに左両輪が脱輪して川にはまったと思ったのに、車が宙に浮いてるんですよ!!あんな不思議なことはありません!!」と言っていました。

「そういうことなどがあったので、僕は神様を信じないわけにはまいりませんよ!!」って言ってくれています。
僕も半信半疑でしたが、彼がそういうのだから間違いないのでしょう!!

“よくとこうまん”の狂った心が、おぢばに教会にと、どうしてなりとも帰りたいという善の心に一途(一条心〔ひとすじごころ〕)になったがゆえに、親神様・教祖(おやさま)は、ほんとうに結構なご守護(奇跡)を見せて下さっているのだと思います。なんとかして彼を救けるために。そして、神様の目には何かが見えているのではないでしょうか!?

また、本来ならば、単独布教に出て我が身を捨て切って艱難辛苦の道を通らせていただかなければならないところを、たった一人ではありますが、世間や親戚はいうまでもなく、親兄弟とも諍いが絶えず、ほとんどもう見放されていたような難しい気の病の“理の子”をお与えいただき、人間力ではどうしようもない危ない中を暖かい“をや”心をもって何度も何度も救けて下さり、気長に導いて下さっている親神様・教祖(おやさま)に、ほんとうに心から感謝させていただいています。
第四号つづき

04.128
いまゝでハにほんかからにしたごふて まゝにしられた神のざんねん

04.129
このかやし神のはたらきこれをみよ いかなものでもまねわでけまい

04.130
いかほどのごふてきたるとゆうたとて 神がしりぞくこれかないまい

04.131
なにゝてもみな一れつハこのどふり 神がぢうよふするとをもゑよ

04.132
しやんせよハかいとしよりよハきでも 心しだいにいかなぢうよふ

04.133
いまゝでもをなぢくらしていたるとも 神のぢうよふしりたものなし

04.134
これからハよろづの事をみなとくで 心ちがいのないよふにせよ

第四号おわり

訳)「今までは、“にほん”が“から”に従ってままにしられた〈ことは〉神の“ざんねん”である。この“かやし”として〈神が働くので、この〉神の働きを見よ。どんな者も真似ができるか。〈“から”の者が〉どんなに剛的な者(剛の者)といっても、神が“しりぞく”(守護の手をひく)から、これにはかなわぬだろう。なんでもみなこのようにして神が自由〈自在の働きを〉すると思え。思案してみよ、〈“にほん”の者が〉どんなに若いとか年寄りとか弱い者であっても、心次第で、〈神は〉どんな自由〈自在の働きもさせる〉。今までも〈教祖と〉同じようにくらしていても、神の自由〈自在の働き〉を知っている者は居なかった。これからは〈この自由自在の働きの話だけでなく〉万事につけてみな説いておくから、心違いのないようにせよ。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第四号つづき

04.120
いまゝでハ高い山やとゆうている たにそこにてハしけんばかりを

04.121
これからわ高山にてもたにそこも もとはじまりをゆうてきかする

04.122
このよふのはぢまりだしハとろのうみ そのなかよりもどちよばかりや

04.123
このどぢよなにの事やとをもている これにんけんのたねであるそや

04.124
このものを神がひきあけくてしもて だん/\しゆごふにんけんとなし

04.125
それよりも神のしゆことゆうものわ なみたいていな事でないぞや

04.126
このはなし一寸の事やとをもうなよ せかい一れつたすけたいから

04.127
にち/\に神の心のしんぢつわ ふかいをもわくあるとをもへよ

訳)「今までは{高い山や}(俺は高山に住む指導者だぞ)と言って〈人々をままに(自由に)して〉いる。谷底(の者)は〈この真実に無知な高山に従って〉しょげているだけである。これからは高山にも谷底にも、〈真実の神の話として〉元初まり〈の話〉を〈“にほん”の者から〉言って聞かせ〈ていさむようにす〉る。この世の初まり出しは泥の海〈であった〉。そのなかに“どぢよ”ばかり〈沢山〉いた。この“どぢよ”は何であるかと言うと、これが人間の“たね”になった。このものを神が引き上げ食ってしまって、だんだん守護して人間としたのである。それからの守護というものは、並大抵なことでなかった。この話は、〈昔話かなんぞを聞くような〉ちょっとしたことと思ってはならぬ。〈この話は〉世界一れつをたすけたいから〈聞かす話である〉。日々に神の心の真実〈を説いて聞かすこと〉には、深い思惑があると思え。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第四号つづき

04.111
このよふを初てからになにもかも 上ゑをしへた事ハあるまい

04.112
このたびハなにかよろづを上たるゑ しらしてをいた事であるなら

04.113
それからハなかにハしやんするもあろ みなよりよふてはなししたなら

04.114
そのなかにしんぢつ心たのもしい をもてしやんをするものもある

04.115
このみちを上ゑとふりた事ならば 神のぢうよふすぐにあらわす

04.116
このよふを初た神のぢうよふを みせたる事ハさらにないので

04.117
なにゝてもしらんあいだハそのまゝや 神のぢうよふしらしたるなら

04.118
これきいてみな一れつわしやんせよ なにかよろつハ心しだいや

04.119
けふの日ハなにがみへるやないけれど 六月をみよみなでかけるで

訳)「この世を初めてからのことは何も彼も〈まだ〉上へ教えたことはないであろう。このたびは何でも皆上たる者へ知らせておいたなら、それからは、なかに思案をする者もあろう。皆が寄り合って話をしたら、なかには本当に心に頼もしい〈話である〉と思って、思案をするものもあろう。この〈話の〉道を上へ通じたならば、神の自由(じゆうよう)〈自在の“たすけ”〉を直ぐに現わす。この世を初めた神の自由〈自在の“たすけ”〉を見せたことはなかった。〈それ故〉何も知らないで過ごしているが、神の自由〈自在の“たすけ”〉を知らせてやったなら〈そのままにはしていられない〉。これを聞いて、みな一れつ〈の人々〉は思案しなければならない。〈これと同じように〉何でも心次第である。きょうの日は、まだ何も見えて(実現して)いないが、六月をみよ、みな出て来る。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
第四号つづき

04.104
このよふを納も上天もかみ 上と神との心わけるで

04.105
だん/\とみゑん事をばゆてをいて さきでみゑたらこれが神やで

04.106
いかほどにみゑたる事をゆうたとて さきでみゑねはわかりあるまい

04.107
これからハせかいぢううのむねのうち 上下ともにわけてみせるで

04.108
これをみよせかいもうちもへたてない むねのうちよりそふぢするぞや

04.109
このそふぢむつかし事であるけれど やまいとゆうわないとゆてをく

04.110
どのよふないたみなやみもでけものや ねつもくだりもみなほこりやで

訳)「この世を治めるも上なら、天もかみである(上方の天にあって、神が治めている)。上と神との〈治める〉心をわける。だんだんと見えないことを言っておいて、先で見えたらこれが神である(神は先をみて治める)。どんなに見えたことを言っても、先が見えなければ〈本当の治め方は〉わかるまい〈。それが上の治め方である〉。これからは世界中の胸の内を、上下共に“わけて”みせる。〈そのため神は働くので〉これ(この働き)をみよ。〈神は〉“せかい”も“うち”も隔てなく(平等に)胸の内より掃除するぞ。この掃除は難しいことであるが、〈埃が立って身上・事情が現われても〉病というはないと言っておく。どんな痛みや悩みや出来物や熱や下りも、みんな“ほこり”である。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)


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