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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\放って置け/\。誰彼を仇と言うのやない。大風々々、大風は何処にあるとも知れんもの。大風というものは、どのようの大きな物でも、倒ける潰れる。大風やで。風は神や。風がかりもの無うては、箱に物を入れて蓋を閉め切りた如く、腐ろうより仕様の無いもの。風がそよ/\あるので、半日や一日は送れるで。人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。今までの修理肥で作り上げた米が、百石貰ろたら、百石だけある間は喰て居らるゝ。今度無い世界を始めたる親に凭れて居れば、生涯末代のさづけやで。これは米に諭して一寸話して置く。』(M20.3.22 刻限御話)
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『さあ/\身の内処、どうでもこうでも、もう思わく通り、今一時処、どうでもこうでも定まる。定まらん処はいずれの心案じる。案じの知らせが掛かる。一つ所いずれの話、実と思えば案じる事は要らん。先々案じあるから、自由自在一寸身の内の処不足出来る。そこで案じ一つも要らん。成り行くよう、誠一つ自由自在。身の内案じあれば、先々案じは何もならんで。』(M20.5.10)
『さあ/\だん/\の席をした、又々の席もした。一日の日改めて一日の日に一つの席をする。難し事は言わん。若き至りやなれども、人間というものは、神のかしもの・かりもの、心一つが我が理である。一名一人多年常々に誠という心あれば、それ多年という。誠あれば誠一つは天の理。天の理ならいかなる事も自由自在や。又一つの理を聞かそ。日々通る。内々の家業という道、孝心の道の理、この二つの理を誠の心常々治めて、又一ついか程若き者やとて、誠治まれば、国々所々の手本雛形鏡という理、さあ/\いつまでも/\/\忘れんようにして、しいかりと胸に治めて、これよりいつ/\までもの、末々のこうのうの理を渡し置こ。さづけ/\、あしきはらいたすけたまへ天理王命、と、これを三遍唱えて又三遍々々々三々々の理を渡そ。さあ/\しいかりと受け取れ/\/\。』(M22.2.4)
『さあ/\身上事情尋ねる/\。身上の事情尋ねる。これよう聞いてくれねば分からん。長らえて身上、どういう事を思やんすれど、分からん。よう聞き分けねば分からんで。人間生まれ更わり理を聞き分け。そういう事はあろうかいな、と思う。世界にある。どんな者、親があって子があろ。何人ある、皆可愛いが理である。年を取る。世界同し理である。難儀するも不自由するも、皆心の理である。ほんにな、理が分かるなら、速やかなものである。何年年を経て、理が分からねば、同し日を通らねばならん。これが実かいな、あたゑをやろうと言うても、嫌じゃ/\言うても、どうでも/\心の理によって与えると言う。』(M22.8.7)
『さあ/\身上に心得んという事情を尋ねる。よく聞き取れ。どういう事が間違うて身の処不足なると思う処、皆同んなじ神の子供、その内に段々ある。心得んと言えば、だん/\心に事情を沸かす。ほんの些かの事情を心に沸かさんよう。事情は世界という。めん/\心にたんのう一つの理を治めば、身は速やかという。身上案ぜる事は要らん。前生いんねん真実をたんのうという。』(M23.9.4)
『さあ聞き分け。神というは隔て無い。内々とも人間身の内かしもの順序よう聞き分け。世界の処幾何人、順序の理を見て聞き分け。鏡やしき、鏡ならどういう事もこういう事も、皆映る。善き事悪しき事映るであろ。これは前生々々身に現われる。鏡いかなる心定め、たんのう/\心定めるなら、やれ/\。たんのう無くては、受け取る処一つ無いで。』(M20.3.25)
『さあ/\道のために尽す処は、さあ/\世界を眺め、先々の処こういう理は今の処はどうせいとも、こうせいとも言わん。内々の処真実々々々々、又々寄りて、真実真実々々寄りて談示して、今の処はどうせとも言わん。なれども今の理見て、先ず先ず心安にして運べば、又々心に掛かる処は安くなる。真実々々々々寄りて談示するがよい。』(M20.5.2)
『さあ/\/\いかなる処/\、道を通り来たる処、一つ経ちたらやれ/\。前々に伝え来たる道筋、どう成るこう成る、早く忘れるように。忘れられん。どう為すにもこう為すにも、一つ我が回心、どう成るかこう成るか、楽しみな道の中に、その中に、何処々々と治め。運べる不足あろうまい。どんな道も長くの中、綱をば離さぬよう。』(M20.11.21)
「かしもの・かりもの」「いんねん」「生まれ更わり」「たんのう」「さんげ」などの『おさしづ』を引用させていただいてきましたが、結局これは、様々な事情や身上で悩み苦しむすべての原因が自分自身にある!!ということを原典を紐解いてお話させていただいたつもりです。

すべては、自分自身が前生前々生においてつかってきた心づかい(前生前々生において蒔いた種)が原因なのであり、そしてこれが、僕のブログのテーマである『白いカラス』の真意なのだということを自分自身でも再認識(悟る)させていただくことができました。

そして、神様は、すべての人間を創造されて、久遠の過去から未来永劫に至るまで、変わらぬ“親(をや)心”をもって御守護下さっており、また完全なる身体をお貸し下さり、人間の魂を成人へと導き育てて下さる『親(をや)神様』なのだということを改めて悟らせていただくことができたように思います。

ひろ
「この道は、自分で聞いて自分で信仰してるんじゃない。魂のいんねんが迫って刻限が来ると、神が引き寄せて神がさしてる道やで。これを人間わざと思うな、この世初めた真実の“をや”がつけてる道やで。」

これは、愛町分教会初代会長関根豊松先生のお言葉の要旨をまとめたものです。
すべての人間は、神様がお造り下さりお育て下さって人生という道を歩ませていただいているのであります。
また、お道に引き寄せられて信仰している人々すべては自分自身の意思で信仰しているんじゃない、すべて神様が魂の因縁に従って連れて通って下さっているのだということを忘れてはいけないよ!!ということです。

そして、お道を通らせていただく心構えとしては、
「救かりたい!救かりたい!と言って、手を合わせて拝むことが信仰ではない。ほんとう(お道)の信仰というものは、決して自分を許さずに自分を捨て切って人をたすけて通らせていただくことである。」

ともお教え下さっています。


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