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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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一昨日、横内さんという方に会った。(いろんな所で講演をされている知っている人は知っている有名な方らしい。)
最近、お道以外で信仰には関係ないが、全力で本気で人様のために“はたらいて”(はたはたを楽にする、人様の為に自分自身を捨て切ってはたらいておられる)いる人とご縁をいただいているようで、なんだか不思議な感じでほんとうに有り難い!!(*⌒▽⌒*)

再び、先日からの小林正観さんのお話で、「トイレ掃除をすると運が良くなる」というような話があるが、精神的な病の人が救かったり、お金に困っている人が不思議とお金の流れが良くなったりするようです。
修養科でも、トイレ掃除を一生懸命やっている人は、ずいぶん良い変化があるようにお聞きしていますが、なんか不思議な『宇宙の道理(方程式)』があるようです。

これは、「人間には宇宙の大生命(神様)とつながっている目には見えないパイプのようなものがあり、人間の我や欲のほこりがそのパイプに詰まってしまっているために、本来の宇宙からいただいているエネルギー(神様のご守護)がうまく流れ込んでこれない状態になってしまい、運命が停滞してしまっている状態」のようなのです。
それで、〈人がみんな嫌がるようなトイレ掃除〉を毎日させていただくことにより、そのパイプの詰まり(我や欲のほこり)が取れてスムーズに宇宙のエネルギーが流れ込んで来るようになるのだそうです。

ひろ
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『ありがとう(ございます)』とは、有り難いこと(普通では有り得ないこと=奇跡)に対して感謝し喜び、そして御礼を申し上げている言葉なのです。

お道のみ教えに『かしもの・かりものの理』というものがありますが、人間の身体は神様からの借り物であり、当たり前のように思っている、「目が見える、耳が聞こえる、匂いがかげる、言葉を話せる、手も足も自由に動かせる、また、呼吸ができる、食事ができる、食べたものを吸収して栄養としていただける、排泄もできる、などなどのことは、すべて神様の御守護をいただいているからこそ自由にでき、自然にしていただいている」という計り知れない神様の御守護(奇跡)を毎日四六時中いただいているということなのです。

しかし、人間はあざないものゆえに、これらのことを当たり前のことと思っているのです。
それゆえに、人間はいくら感謝してもしきれないくらいの恩恵を神様からいただいているのに、ほとんど感謝もせず御礼一つ言えないで暮らしているのです。

そこで、《ありがとう(ございます)》という『感謝と喜び』の言葉を絶えず口にして御礼を申し上げて日々を通らせていただくということは、日々を“たんのう(堪能=十分満足させていただく)”の心で通らせていただくとことになるのだと思います。
また、神様は「“たんのう”は前生因縁の“さんげ”として受け取る」とも仰せになられています。
決して不足(泣き言、不平不満、愚痴など)を言わずに、《ありがとう(ございます)》という言葉をかかさずに毎日口癖のように実践させていただいていると、その回数に応じて不思議不思議の奇跡的な御守護がいただけるようになるようです。
ただし、不足を一回でも口にするとなかなか御守護はいただけないようなので、しっかりと“心定め”をさせていただく必要があります。

ひろ
『たんのう』とは、どんな辛い厳しい状況におかれたとしても、前生前々生における“悪因縁”によって生じて来ている通り返しであり、果たしとなるもの(悪因縁を納消していただくためにどうしても通り抜けなければならないもの)と深く悟り、『ああ、大難を小難にしてお連れ通り下さっている、ほんとうに結構で有り難いことだ!!』と感謝し《十分満足させていただく!!》ことだと悟らせていただいています。
しかし、これはほんとうになかなか難しいことだと思います。

これを小林正観さんが言われるように、すべての成ってくることを、ああこれは今の自分に必要なことなんだなあとまるごと受け入れて、理由はわからなくても、決して不足(泣き言、不平不満、愚痴など)を口にせずに、ただただ、常に《ありがとう(ございます)》と感謝の言葉を繰り返す毎日(1日に1000回以上)を送っていると、不思議不思議と奇跡のようなことが起きてくるようです。
これは、ひじょうに画期的な超プラス思考であり、より神様に感謝させていただき御礼を申し上げていることになり、“たんのう(堪能=十分満足する)”させていただくことにつながるのではないかと思います。
しかし、これには不足(泣き言、不平不満、愚痴など)を一切言わないという約束事があるので注意しなければなりません。一度でも不足してしまうと始めからやり直しになるそうです。
実際に奇跡的な変化があるようなので、少なくとも何か良い変化が起きるまでは、「一切“不足”をしない!!』としっかりと“心定め”をさせていただくとよいのではないかと思います。

ひろ
以前にブログで紹介させていただきました小林正観さんの本についての記事をまとめてみました。
http://silver.ap.teacup.com/applet/moonlightneo/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%8F%AC%97%D1%90%B3%8A%CF&inside=1&x=0&y=0


最近、ガンで友人がまさか?の出直しをされました。余命を宣告されてガンを承知の上で修養科に入られて元気になられて無事修了され、もうほとんど見た目や体調的にも健康そのもののような方で、出直される二週間前くらいまで、メールのやりとりをしていた方でした。(そうなることがその方の寿命だったのか?とは思いますが、どうしてそうなってしまったのか?が理解できず、もうどうしようもないくらいショックな衝撃的な出来事でした。)

そして同時に、今お世話させていただいている理の子が大きな節に入っており、僕自身の生活環境や体調も変調をきたして来ているという大きな大きな節をいただいていました。

僕自身をはじめ人間というものは、自我(ほこり)の心がひじょうに強く、なかなか深く「因縁の自覚」をし“たんのう”させていただくということは、ひじょうに難しいということを再認識し、いろいろ思い悩み、最近、またいろんな本を読み返してみることにしました。
そこで、再び、小林正観さんの本を読んでいると、わかっていたはずのことが、ちゃんと認識できない状態になってしまっていたんたんだなあということがわかりました!!(^_^;)

それで、本の最後の方に書いてあるホームページに行ってみました。すると、わりと近い所に「うたし」会のショップがあることを発見させていただきました。
早速そこへ行き、様々な本をお借りして読ませていただいているのですが、どうしてこれだけお道のみ教えと同じようなことがわかりやすく書いてあるのだろうか?と不思議に思いました。
これは、大きな節を与えていただき様々なことに悩み苦しんている僕に、神様が与えて下さったプレゼントなのではないかと思います。

お道の人ではない方(何の宗教や団体にも属されていません)が、僕が悟らせていただいているはずの『お道のみ教え』を再認識させていただくために、神様が小林正観さんを通じて噛み砕いてわかりやすく教えて下さっているように僕には思えます。

もしかしたら、僕の悟り方が間違っているのかもしれませんが、これからしばらく(毎日にはならないかと思いますが…)僕が感じたことを書かせていただきますので、参考になるなあと思う方はぜひ参考にしてみて下さい。

ひろ
『さあ/\事情以ちて事情尋ねる。身の処さあ/\めん/\身上事情人にもあればどうなろう案じ一つの理を回る。取り直せ/\。治め一つの理が大事。人間というは残らず神の子供。救からんやならん処の理より、救からん処の理を聞き分け。心一つの理である/\。案じる事は要らん。案じは案じの理を回る。どうであろう、案じやせんと言うても、心一つというは、時々日々どんな事も思う。変わるは一つの案じ、変わらんは一つの誠。』(M22.9.21)
『さあ/\めん/\の身上、身上から事情、めん/\から大抵の事情尽す。めん/\の身の処の事情分からんと言う。何も分からんやない。一度聞いた事生涯と、心定め。一寸々々心変わりては、どんならん。めん/\諭する理いと、めん/\の身いと、この理を分からんや、何遍でも後い戻る/\。身はかりもの、心我がもの。心を洗い、内々には芯というものがある。芯を狂えば、朝の晴天昼から曇る。曇れば晴らす、晴天以ちて働くをやである。この理をよく聞き分け。』(M21.7.4)
『さあ/\/\めん/\、身上の処、一度二度の処の障りというものは、聞くや否直ぐと癒るは身の障り、直ぐとならんはほこりである。めん/\心に諭する処に、めん/\案じがありてはどんならん。めん/\身の処定めが付けねばならん。又々内内の処にも、見定め付けて、ほんにという処を以ちて知らさんならん処もある。いろ/\の道も心に掛けるようの、知らしたさの事であるのや。』(M20.10.24)
『さあ/\尋ねる。一名一人心尋ねる理は、一名一人万人同じ事、一名聞き心にある。何か聞いて居るであろ。人間々々元が分かろまい。世界中皆神の子供。難儀さそう、困らそうという親はあるまい。親あって子がある。この理を聞け。憎い可愛の隔て無い。養育さしてもどのよな者もある。同じ幾名の中、親の子、中に一つ隔てられる、隔てられる。一名一人かりものによって仕られる。多く子供隔て理は無い。世上見て多く中の理を見れば、分からん事はない。同じかりもの、前々生まれ更わり、身に錆びる。又生まれ更わり、同じ心通り身に現われて、見分け聞き分け。人間同じかりもの知らす。知らん。世上鏡映してある。分かる。難儀不自由身上現われてある理を見る。そこで長々あの身なら、たんのう無きにもあろまい。それよりたんのう早く定め。誠心である。身が不自由、たんのう、理はあるまい。人間同じかりものなら、その身ならたんのう。一寸早くいかなる理を取り直せ。』(M20.12.9)
『さあ/\尋ねる事情、身上一条の理を尋ねる。さあ/\、身の内どれだけ長らえて、何ぼうでもならん。日々の処、思う一つの理であろ。話聞く。成程と心を治め、よく聞き分け。人間身上不足、世界の一つの理である。いんねん一つの理聞き分けたか。いんねん生まれ替わりの理も聞き分けたか。聞き分けたら分かる。一時でない、成程の理を聞き分けくれるよう。生まれ更わりの理は、世上の理を見て成程。前生世界の理を見てさんげ。同じ神の子供、可愛が一条。よう聞き分けてくれるよう。』(M22.8.22)
『さあ/\身の処/\皆一々尋ねる。前々以ちて皆知らしてある処、身はどうでも分からんという処尋ねる。尋ねるから聞かそ。日々の処不自由一つも無い。思い掛けない、とんとどうもならんと、外に案じは無い。身の処に一寸案じ一寸不足どういうもの、身の処十分の案じてあると、たんの一つの理急く。一つの理もある。何処がどうや、内一つ暮らす処や。早く、一つの処から何でも思やんしてくれ。日々暮らす処がたんの。世界の理を見てたんのう一つの理を定め。何よの事もたんのう一つの心定め。身の処案じは要らん。第一案じてはいかんで。一つ旬々の道も聞いた。旬々のあたゑと、この理を聞き分けてくれと。』(M22.11.2)


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