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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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第十章 陽気ぐらし つづき

 かくて、世界一れつの心が澄みきる時、たすけ一条の思召が成就して、親神の守護は余りなく垂れ、ここに、人の世は、未だかつてない至福を受ける。これぞ、楽しみづくめの世界、神人和楽の陽気づくめの世界であり、真正の平和世界である。
 思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたつた。それは、互に争を事とし、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるものと、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞著である。この矛盾を解き、撞著を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道である。
 世界は、平和を求めて止まない。しかし、真の平和世界は、ただ人間相互が争わぬだけで、全うされるものではない。よしや、それは争のない姿であつても、光溢れる平和の訪れではない。真の平和世界は、親神の理によつてのみ築かれる。この親神の道が、人々の胸に正しく治められ、すべてが、己が利欲を忘れ、温かい親神の守護の下、互扶けの真実の働きにつとめ合い、親神の待ち望まれる陽気づくめの世界になる時、この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

つづく
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第十章 陽気ぐらし つづき

 せかいぢうみな一れつハすみきりて
  よふきづくめにくらす事なら          七 109

  月日にもたしか心がいさむなら
  にんけんなるもみなをなし事          七 110
  このよふのせかいの心いさむなら
  月日にんけんをなじ事やで           七 111

 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。それは、親神の思召のまにまに、いそしむ日日であり、正しくきりなしぶしんである。そして、この明るい心に、自ら豊かな恵が与えられて、心は更に勇み立つ。子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。
 人々は、この親心にもたれつつ、世界中皆一れつは隔てない親神の子、兄弟姉妹という理を心に治めて、高きものも低きものも、遠きものも近きものも、相互に扶け合い、常にたゆまず、ひながたの道をたどり、陽気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむならば、やがては、全人類の心も入れ替り、世は自と立て替つてくる。

つづく
第十章 陽気ぐらし つづき

 陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

 皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(明治三〇・一二・一一)

 人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

 勝手というものは、めん/\にとつてはよいものなれど、皆の中にとつては治まる理にならん。 (明治三三・一一・二〇)

 一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。
 一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集つても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取つて頂けない。人皆、相互に一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。

 心を合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん。 (明治三五・九・六)

 親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜びは世界にひろまつて行く。親神は、これを望ませられる。
第十章 陽気ぐらし
 たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。
 親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である。

  いつまでしん/\したとても
  やうきづくめであるほどに          五下り目 5

 明るく勇んだ心、それは陽気な心である。この陽気な心で日々を送るところに、真の幸福があり、生き甲斐がある。いか程長く道をたどつても、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ。親神の守護のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活するのが、人の世のこの上ない味である。閉された心の窓を開き、遍(あまね)き親神の光を身に受ける時、自ら暗い迷いの雲は晴れて、明るい喜びの中に立つ。陽気ぐらしとは楽しみづくめの生活である。

つづく
05.030
ちかみちもよくもこふまんないよふに たゞ一すぢのほんみちにでよ

05.031
このみちについたるならばいつまでも これにいほんのこふきなるのや

05.032
にほんにもこふきがでけた事ならば なんでもからをまゝにするなり

05.033
このよふをはぢめてからのしんぢつを またいまゝでハゆうた事なし

05.034
このはなしむつかし事であるけれど ゆハずにいればたれもしらんで

05.035
たん/\とどのよな事もゆてきかす 心しづめてしかときくなり

訳)「近道も〈通らず〉、欲も高慢もないようにして、ただ一筋の本道にでよ。この道についたなら、いつ迄もこれが{にほん}の{こふき}である。{にほん}にも{こふき}が出来たことなら、必ず{から}を〈{にほん}の〉ままにする。この世初めてからの真実を、まだ今までは言ったことはない。この話は〈話するのが〉難しいけれど、言わずにいれば誰も知らない〈ので何とか知らさねばならない〉。〈それ故〉だんだんとどんなことでも〈{にほん}の者に教えて、それから〉言って聞かせる〈ようにする〉。この話を心静めてしっかり聞いておけ。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
05.017
けふまでハなによの事もせかねとも もふせきこむでをふくハんのみち

05.018
このみちハせかいなみとハをもうなよ これまつだいのこふきはぢまり

05.019
このにんぢうとこにあるとハゆハんでな みのうちさハりみなくるであろ

05.020
このさハりてびきいけんもりいふくも みなめへ/\にしやんしてみよ

05.021
このはなしなんとをもふてきいている かハいあまりてくどく事なり

05.022
どのよふにいけんりいふくゆうたとて これたすけんとさらにゆハんで

05.023
にんけんのハがこのいけんをもてみよ はらのたつのもかハいゆへから

05.024
しやんして心さためてついてこい すゑハたのもしみちがあるぞや

05.025
いまゝでハ心ちがいわありたとて ひがきたらんてみゆるしていた

05.026
このたびハなんでもかでもむねのうち そふちをするでみなしよちせよ

05.027
むねのうちそふぢをするとゆうのもな 神のをもハくふかくあるから

05.028
このそふぢすきやかしたてせん事に むねのしんぢつわかりないから

05.029
この心しんからわかりついたなら このよはぢまりてをつけるなり

訳)「きょうまでは、何事にも〈余り〉急かすことはなかったが、もう〈きょうは〉往還の道を急込む。この〈往還の〉道は、世界並のことと思ってはならない。これは末代(永遠)にわたる{こふき}の初まりである。この(今話題の)人衆は、どこに居るとは言わないが、身の内の障り(病気)〈を手引きとして〉みな寄って来るであろう。この障りについては、〈神の〉{てびき}・{いけん}・{りっぷく}〈であるけれど〉も、みなめいめい(各自)〈心違いを〉思案してみよ。この話を何と思って聞いているか。〈神は人間が〉可愛い余りに口説いているのだ。どんなに{いけん}や{りっぷく}と言っても、これをたすけないと言っているのでは決してない。人間のわが子を意見することを考えてみよ。腹の立つのも可愛い故からであろう。よく思案して、心を定めて随(つ)いて来い。末には頼しい道があるぞ。今までは心違いがあっても、〈まだその〉日(旬)が来ていないので見許して〈そのままにして〉いた。このたびは何でも彼でも胸の内(心)を掃除するから〈この点を
よく〉みな承知していよ。胸の内を掃除をするというのも、神の思惑が深くある(色々教えたい)からなのだ。〈すなわち、いくら教えても、この胸の〉掃除をすっきりと仕上げてしまわないと、{むね}が真実に{わかった}ということにならないからである。〈掃除して〉この〈ように〉心が芯から{わかった}ということになれば、この世初まり〈と同じ守護を現わす{つとめ}の手を付ける。〉」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
『さあ/\/\身の処一寸心得んと分からん。分からんと尋ねる。しいかり聞き分けば、分からんでない。身の処かりもの処、理を聞き分けば、理を弁え。めん/\癒る癒らんという処、それ世界皆同し兄弟や。神はをや、世界は皆かしもの。救けたいは一条や。多くの中/\、心通りを皆現わしてある。前生や/\、前生のいんねんや。理を聞き分け。生まれ更わり/\、前生のいんねんや。心通りを皆映してある。この理をよう聞き分け。めん/\皆同し兄弟や。めん/\も同し兄弟なら、めん/\もあんな身ならと思て成程と心治めて、たんのうをせねばならん。成程の道を知らして置こと。』(M20)
ギャアテイギャアテイ
ハラギャアテイ
ハラソウギャアテイ
ボーディソワカ

は、

ありがとうございます
ありがとうございます
ほんとうに
ありがとうございます
ほんとうにほんとうに
ありがとうございます
悟りを成就させていただきました

という意味なのではないかと思います。

つまり、この宇宙は神様によって完全円満に造られていて、何一つ不足なものはない。それゆえに、すべてに満足させていただくということが神様に御礼を申し上げるということになるのあると思います。

神様のお言葉に、

『この世は理でせめたる世界なり』

『成って来る理が天の理』

『たんのうは真の心の誠』

というのがあります。

即ち、この世のすべては因縁によって生じ、因縁によって様々な現象が生じているとうことであります。
いかなる悩み苦しみが生じて来ても、自分自身が前生前々生、あるいは今生において蒔いて来た種通りの現象が起こるべくして生じて来ているのだけなのだから、しっかりと自分自身の因縁を自覚させていただいて、成って来る理(生じて来るいかなる現象でさえも)を素直にまるごと受け入れさせていただいて、《たんのう》(=十分満足する)させていただいて決して不足や愚痴をいわずに感謝と喜びの心で日々を勇んで通らせていただくことが大切なことだということを教えて下さっているように思います。
そして、少しでも人様に喜んでいただけるようにはたらかさせていただき、自分自身が太陽のような存在にならせていただくことこそが、《陽気ぐらし》の実践なのだということを深く悟らせていただくことができたように思います。
ほんとうに、心から感謝させていただいています。ほんとうにほんとうに、ありがとうございました!!!(*⌒▽⌒*)

ひろ
05.009
せかいぢうどこのものとハゆハんでな 心のほこりみにさハりつく

05.010
みのうちのなやむ事をばしやんして 神にもたれる心しやんせ

05.011
どのよふなむつかし事とゆうたとて 神のぢうよふはやくみせたい

05.012
いまゝでハ神のぢうよふしんぢつを しりたるものさらにないので

05.013
これからハいかなむつかしやまいでも 心したいになをらんでなし

05.014
しんぢつの心を神がうけとれば いかなぢうよふしてみせるてな

05.015
こらほどの神のしんぢつこのはなし そばなるものハはやくさとれよ

05.016
これさいかはやくさとりがついたなら なにゝついてもみなこのどふり

訳)「世界中({うち}も{せかい}も)どこの者と〈いう区別は〉言わない。〈誰でも〉心の{ほこり}が身に障りとなる。〈それ故〉身の内(体)の悩むところ(病気)を思案して〈{ほこり}の心違いを{さんげ}し〉神に{もたれる}心〈になるよう〉思案せよ。〈そうしたら自由自在のたすけをするので〉どんなに〈病が〉難しい(重い)と言っても、神の自由自在のたすけを早く見せてやりたい。今までは、神の自由自在という真実を知っている者は全く居ないので〈誰も本当に思案をしていなかった〉。これからはどんなに難しい病でも、心次第で直らぬということはない。真実の心を神が受けとれば、どんな自由〈自在のたすけ〉もしてみせる。これほどの神の真実の心からするこの話を、{そば}の者は早く悟れ。これさえ悟りが付けば〈神は自由自在のたすけをして見せるので〉、何についてもこれと同じ道理である。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
05.001
いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど あとさきしれた事ハあるまい

05.002
このたびハさきなる事を此よから しらしてをくでみにさハりみよ

05.003
このよふハいかほどハがみをもふても 神のりいふくこれハかなハん

05.004
めへ/\にハがみしやんハいらんもの 神がそれ/\みわけするぞや

05.005
一やしきをなじくらしているうちに 神もほとけもあるとをもへよ

05.006
これをみていかなものでもとくしんせ 善とあくとをわけてみせるで

05.007
このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまい

05.008
をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうで

訳)「今までは牛馬〈に堕ちる〉ということは、時々聞いていても、あと先(過去と将来)が〈はっきり具体的に〉知られることはあるまい。このたびは先なること(来世)をこの世(今生)からしらせるから、身の障り(病気)によってこれを見て〈よく思案せよ〉。この世はどんなにわが身のことを思っても、〈その通り方が〉神の立腹〈となるようなもの〉では、これは思い通りにはならない。めいめい(個人々々)にわが身思案は要らない。神がそれぞれ〈その者を〉見分ける。一屋敷〈の中に〉同じようにくらしていて、〈“神も仏もない”と思ってわが身勝手な通り方をしても〉“神も仏もある”のだということを考えよ。〈神は立腹の{かやし}をするので〉これ({かやし})をみて、どんな者でも得心せよ。〈神は〉善と悪とを分かるように〈必ず〉する。この話を一れつは思案せよ。〈一人として〉同じ心ではあるまい。親子でも夫婦でも、兄弟姉妹の仲でも、みな一人ひとり心は違う。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)


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