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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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05.036
いまゝでハいかなるほふとゆうたとて もふこれからハほふハきかんで

05.037
これまてハゑださきにてわほふなぞと をしへてあれどさきをみていよ

05.038
にほんにハいまゝでなにもしらいでも これからさきのみちをたのしゆめ

05.039
ほふやとてたれがするとハをもうなよ このよ初た神のなす事

05.040
どのよふなむつかし事とゆうたとて 神がしんちつうけとりたなら

05.041
いまゝでハからやにほんとゆうたれど これからさきハにほんばかりや

05.042
ゑださきハをふきにみへてあかんもの かまへばをれるさきをみていよ

05.043
もとなるハちいさいよふでねがえらい とのよな事も元をしるなり

05.044
ぢつやとてほふがへらいとをもうなよ こゝろのまことこれがしんぢつ

05.045
にんけんハあざないものであるからに めづらし事をほふなぞとゆう

訳)「今まではどんな法(法術)と言っても、これからは法は効かない。これまでは枝先では法なぞと教えてあるけれども、先(将来)を見ていよ。{にほん}には〈法のようなものはまだ〉何も知らなくても、これから先の道〈には、法よりすぐれたものがあること〉を楽しんでいよ。〈一体〉法といっても誰が〈法によってたすけを〉するかなど考えなくてもよい。この世初めた神がするのである。〈それ故このたび{こふき}によるたすけでは〉どんなに難しいことといっても、神が〈たすけを取次ぐ者の〉真実を受けとったなら〈できて行く〉。今までは{から}や{にほん}と言って来たけれど、これから先(将来)は{にほん}ばかりである。枝先は〈葉が繁って〉大きく見えるけれど、手を出すと折れる(案外弱い)。これから先をみていよ。元なるものは小さいようであるが、根であるからしっかりしている。どんなことでも元を知ることが大事だ。術とか法とかいうものがえらいものだと思うな。心の誠、これが真実であり真の術である。〈それを〉人間は浅はかであるから、物
珍しい事を法なぞと言〈って、そのまねをしようと思〉うのだ。」(〔おふでさき通訳〕芹澤茂著 天理教道友社刊参照)
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『さあ/\まあ/\多くの処に尽す処積み重ね/\、今までの処はそれの事にして、今一つの理を聞かそ。理が有るか、理が無い中、今一つの十分なる処の話、これまでもころりと理を分ける。話内々の処理もある、かしもの八つの道理、又前生のいんねんという処の理もある。世界は鏡と言うてある。どんな者でも一つ/\心ある。心通り身に現われてある。身を人に見せられんというもある。身に現われるは世上のいんねんと言うてある。そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。』(M20)
『さあ/\身上事情尋ねる。さあ/\聞き分け。身上不足なるやない。心の不足身に現われる。さあ/\これ程聞いて居る、尽して居る、運んで居る中に、一つ身に不足なるというは、よく思やんせよ。今一時になるやない。いんねん前生、これ世界不自由の不自由難儀の難儀の者もある。よく世上見て一つのさんげ。いんねん一つのさんげはたんのう一つの理を治め。これ程尽して居る、澄まして居ると思う心は、これ思わずに、未だ/\道はこれからや、尽す処もこれからやと、いかなる理も聞き分けて、実一つの心で定めて、理を聞き分け。よく聞き分けんや分からんで。』(M20)
『さあ/\、よう聞き分け。何よの事も聞き分けが第一。十分なる処の理を聞かそ。自由自在、神の自由自在、心の誠やで。年が行かんと言うても、一夜の間にも心を入れ替え。神は直ぐと受け取る。誠の容れ物拵え。十分の容れ物拵え。容れ物無しにはいかん。誠積み重ね、十分一つの容れ物。』(M20)
『さあ/\いかなるも聞き分けくれ。第一いんねん無き者いんねん無い。いんねんの筋も幾重にある。何にも隔てある思い、何かの処も、順々の心治め。道という道も一つである。めん/\心の道というもの、めん/\拵えたものである。神の道というもの、一つの道通れば、どんな者にもなる。何ぼ若きと言うても、何ぼ年を取れたると言うても、人に伝え、内治め、人を治め、この理を一つ治め置かねばならん。とんとも言えん。』(M20)
『さあ/\誠一つ十分と思う処、十分前々十分道は通り難くい。速やか誠神一条話、とんと十分話伝え、一つこの道を通らずして思う処無き澄み切ったる水をさぐらん。一つ曇り、又曇り、一寸一つ誠暇要る。良き後人道すがら、よう道聞き分け。今一応暇が要る。一つ心を運び、日頃一応早くと思えば、一つ十分。どうや知らん、うっかりはして居られんて。早く/\道を急ぐ。』(M20)
『さあ/\願う処、順序道成程聞いて、一つ幾重の道もどんな事も見にゃ分からん。古い隔ては無い。善きか、善いもの。悪い事が悪い話。世界の心、銘々心、この一つの見よい理が、悪い理が善いで。さあ/\いかな処、いかなる処も、何かの処もどういう日もある。神一条いかなる道も聞き分けよ。神の道は天然自然の道である。何年以前は言わいでも、誠の道が天の理である。自由自在と銘々の胸の中散乱、どれから見てもどれから聞いても成程。』(M20)
『さあ/\身の処幾重の話聞く。これだけ思えども、これだけの事がいかん精神定め。神の子供であるから、何処に隔ては無い。銘々隔てねばならんというは、一つの心である。どうせにゃいかんと言わん。これが誠にいう精神定め。道をば案じるでない。案じたら案じんならん。安心せ。』(M20)
『さあ/\尋ねる事情/\尋ねる事情、身の処にて心得んという事情、いかなる理いかなる心。身の処心得んという事情は、よく聞き分け置かねばならん。一寸迫る。何が間違うであろう。日々の処間違う事は無い。事情計り難ない。他に諭するに、どういう事情諭すか。めん/\それ/\めん/\の処にて道の理というは、万事の理に治まる。世界小そう取りてはならん。第一の理思うように行かんと、日々思うは理であろう。日々精神ありて日々十分尽す運ぶは、十分受け取るである。いかなるもたんのう。事情は世上一つの理に治まりて来る。その中に身の障りというは、どういうもの。善き事もどんな事も一人の理に掛かる。大き一つ心、先々長くの楽しみ。先々いかなるもまあ/\。早くが早くにならん、遅いが遅いにならん。身の処、いかなるも案じ無き、更々以てどんな話どんな理、治め方の話、旬々の話。旬が来れば、独り見えて来る。万事ずうと先々の心を治めてくれるよう。』(M24.5.14)
第十章 陽気ぐらし つづき

 惟うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをどりのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、所定の人と所と時の立て合いによつて、この教を始めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念することを教えられた。
 かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示されたのも、親神の深い思わくによるものであつて、正に、教祖ひながたは、道の生命である。
 人は、先ず、身上や事情にてびきを頂き、親神を知る。そして更に、身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道すがらには、雨の日も風の日もある。しかも、その中に、日々たんのうの心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた誠真実は、自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼくを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、魂は続々と更生されて行く。
 かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥進む。

  このみちハどふゆう事にをもうかな
  このよをさめるしんぢつのみち         六  4


第十章 おわり


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