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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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講元はありがたそうに頭を下げていたが、その人は何のことかわからなかった。歌を聞かせて貰ったのか、お説教を聞かせて貰ったのか、それとも馬鹿にされたのか―――。その中でも、馬鹿にされたという思いがはっきりして来ると、わざわざ京都から歩いて来たのが、無駄骨折りで、うわさ通り教祖様は「狐つき」だろうとひとりうなずいた。
帰り道は講元とは余り話もしなかったし、腹立ちまぎれで足は早かった。
「まま食べるのも月日やで、もの云うのも月日やで」、ただそれだけの言葉を幾度も幾度も口の中で繰り返してみたが、得心出来なかった。(自分でこうして歩き、自分で食い、自分で喋〔しゃべ〕っているのに………馬鹿なこというな)と舌うちをして、「狐使いめが、何をいう―――」とつぶやかずにはおれなかった。それから間もなくその人はコレラになった。

つづく
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“明治十七年夏、京都の市民は猖獗(しょうけつ)を極めたコレラにおびえていた。深谷氏は、そうした市民の一人を連れて、真夜中に京都をたち、日盛りをようやくおぢばに着いた。連れられて来た人は、もともと「お詣りしておけば損はあるまい」というほどの、あてのない参拝だった。
真夏の午下り、三島の村のあたりには人影もみえず、お屋敷も灼けるような日の下にひっそりしていた。休憩所にゆくと、教祖様は上段の間で、横になっておられた。その人は講元である深谷氏と二人で下座にひかえていると、取次ぎの先生が、「京都からこれこれの二人が見えました」と教祖様に伝わる。二人が改まって頭を下げたとき、教祖様は身体を起こされ、
「まま食べるのも月日やで、もの云うのも月日やで、これわからんが、ざんねんざんねん」
そう仰っしゃったきり、また横になってやすまれた。それは美しい声であった。聞きなれぬ節まわしもついていた。

つづく
 教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」と、仰せられた。
 明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。
 お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。
 弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。
 ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。
 弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講でございました。」と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。
『まま食べるのも月日やで、もの云うのも月日やで、これわからんが、ざんねんざんねん。』
『日々は喜んで通らして貰うのやで。喜べない様な日もあろう。喜びにかえて通らして貰うのやで。真実の心で通らして貰えば、喜べるのや。誠の心で通ってくれ。日々通らして貰う心の使い方、持ち方、よう思案してくれ。心の使い方によっては、徳にもなれば、埃にもなるで。真実や、誠やと思うて通っていても、その真実誠の中に埃がまじるのや。それを誠の中の埃というのやで。心の使い方というても、我が身思案からの通り方と、人に救かって貰う、喜んで貰う通り方とがあるのや。塵一つ拾うても誠。大きな木取り片づけても真実といえん事もある。日々よう思案してくれ。誰れにでも通れる事やで。心の持ち方、思い方が大事やで。心の思い方というても、人間はあざないものであるから、都合の良い様に考え、又は思い、我が身に都合の悪いことは、そうはいかんというてしまう。そんな事では道はつくはずがない。都合の良い事も悪い事も、心一つに治めて通ってくれ。神様がきっと連れて通って下さるで。一つも心配いらんのやで。日々通る中に、どんな中もあろう。難儀な中
、むずかしい中、そのならん中を喜びにかえて通ってくれ。その中にご守護が頂けるのや。無理と思うてはいかんで。たいそうに思うやないで。喜びにかえて通って行く中に、あゝ結構やった、有難かったと思える日が必ずあるのやで。その日を楽しみに通ってくれ。今の苦しみは先の楽しみやで。日々を喜んで通らして貰いなはれや。』

これは、明治八年六月十四日、桝井伊三郎氏がお屋敷へ詣り、教祖に、「心が晴れ晴れと致しませんので………」と申し上げたところ、教祖がお話して下さったお言葉だそうです。(「しあわせを呼ぶ心」尾崎栄治著 善本社刊より)
 かくて、親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥として旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。これを、

 このよふを初た神の事ならば
 せかい一れつみなわがこなり          四 62

 せかいぢう神のたあにハみなわがこ
 一れつハみなをやとをもゑよ          四 79

 せかいぢういちれつわみなきよたいや
 たにんというわさらにないぞや        一三 43

と教え、更に又、

 月日にわにんけんはじめかけたのわ
 よふきゆさんがみたいゆへから        一四 25

 せかいにハこのしんぢつをしらんから
 みなどこまでもいつむはかりで        一四 26

 このさきハせかへぢううハどこまでも
 よふきづくめにみなしてかゝる        一〇 103

と仰せられている。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であり、理想である。これを実現しようと、よふきづとめを教えて、たすけ一条の道をつけられた。よふきづとめの理は、実に、この元初りの真実による。

 ちよとはなしかみのいふこときいてくれ

 あしきのことはいはんでな

 このよのぢいとてんとをかたどりて

 ふうふをこしらへきたるでな

 これハこのよのはじめだし


おわり
 親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えようとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの、元初りの約束に基く。

 にんけんをはじめだしたるやしきなり
 そのいんねんであまくたりたで         四 55

 このよふをはぢめだしたるやしきなり
 にんけんはじめもとのをやなり         六 55

 月日よりそれをみすましあまくだり
 なにかよろづをしらしたいから         六 56

 親神は、この約束により、人間創造の母胎としての魂のいんねんある教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰い受けられた。この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんねん、やしきのいんねん、旬刻限の理という。

 この月日もとなるぢばや元なるの
 いんねんあるでちうよぢさいを         八 47

 このはなしなんでこのよにくどいなら
 たすけ一ぢようけやうのもと          八 48


つづく
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

 月日よりたん/\心つくしきり
 そのゆへなるのにんけんである      六 88

 このよふのしんぢつの神月日なり
 あとなるわみなどふくなるそや      六 50

 にんけんをはぢめよふとてたん/\と
 よせてつこふたこれに神なを       六 51

 この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこたちのみこと 日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのである。

 しかときけこのもとなるとゆうのハな
 くにとこたちにをもたりさまや         一六 12

 思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをなされた。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。

 月日にわせかいぢううをみハたせど
 もとはじまりをしりたものなし        一三 30

 このもとをどふぞせかいへをしえたさ
 そこで月日があらわれてゞた         一三 31


つづく
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。

つづく


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