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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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03.092
このよふハにぎハしくらしいるけれど もとをしりたるものハないので

03.093
このもとをくハしくしりた事ならバ やまいのをこる事わないのに

03.094
なにもかもしらずにくらすこの子共 神のめへにハいぢらき事

03.095
なにゝてもやまいとゆうてさらになし 心ちがいのみちがあるから

03.096
このみちハをしいほしいとかハいと よくとこふまんこれがほこりや

03.097
このよふのにんけんハみな神のこや 神のゆう事しかときゝわけ



ここで、人間の悩み苦しみの原因を説いて下さっています。
人間はみな神様の子供なのであるが、心づかいに間違いがあるために様々な悩みや苦しみが生じている。早くその心づかいの間違いをあらためるようにとお諭し下さっているのだと思います。

ひろ
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03.041
にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら


これは、「かしもの・かりものの理」を説いて下さっているおうたであり、一個人における身の内の『十全の御守護』だけではなくて、親、兄弟、親類縁者、友人、配偶者や子供、そして“おたすけ”においてお世話させていただくようになった方々にいたるまで、すべての縁ある人たちは、『神様から自分自身の因縁にふさわしい《ちょうどいい》人々をお借りしているのである』ということを教えて下さっているように思います。

ひろ
03.040
たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ


この世界(宇宙)そのものが神様のからだなのであるから、すべては完全円満に出来上がっている。ゆえに、この世界は理づめの世界であり、すべてのものは『天の理』によって成り立っているということになるのだと思います。

ひろ
01.021
このよふハりいでせめたるせかいなり なにかよろづを歌のりでせめ


この世は、理でせめたる(理詰めの)世界である。すべてのものごとは理(天の理=宇宙の道理)によって説き聞かすことにする。

これは、以前に「般若心経」のところで書かせていただきました、「この世界は完全円満に出来上がっている」ということと同じことではないだろうか!?と悟らせていただいています。

ひろ
01.001
よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから

01.002
そのはづやといてきかした事ハない なにもしらんがむりでないそや

01.003
このたびハ神がをもていあらハれて なにかいさいをといてきかする

01.004
このところやまとのしバのかみがたと ゆうていれども元ハしろまい

01.005
このもとをくハしくきいた事ならバ いかなものでもみなこいしなる

01.006
きゝたくバたつねくるならゆてきかそ よろづいさいのもとのいんねん

01.007
かみがでてなにかいさいをとくならバ せかい一れつ心いさむる

01.008
いちれつにはやくたすけをいそぐから せかいの心いさめかゝりて


この“おふでさき”が、“よろづよ八首”になったわけなのですが、改めて拝読させていただくと、ものすごいことをおっしゃられているんですよね~!!

ひろ
 教祖は、おふでさきについて、「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで。』 と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ。』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。
 『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ。』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである。」と、仰せられた。
 これは、後年、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉である。
『吾唯足知』
(われただたるをしる)

四年前の修養科の時、詰所の部屋の壁に書いてあったのを思い出しました。その時は意味がよくわからなかったのですが、“たんのう”に通じる言葉だと思います。

もしかしたら、神様がその時から“たんのう”を教えて下さっていたのかもしれません。

ひろ
この世は、完全円満にできており、毛筋程も狂いのない理づめの世界である。ゆえに、成って来るすべての理(現象)は、すべてにおいて自分自身が前生前々生および今生において蒔いた種〔因縁〕通りに生じて来るものであるから、そのすべての理を受け入れて心に納め、納得、得心させていただくこと《たんのう》が大事なことだと思います。

そうして、日々を《たんのう》させていただいて過ごしてゆくことを続けてゆくことにより、すべての悩みや苦しみ、迷いや不安などが無くなって来る。
そしてかつ、一切の物事に不足をしないで、すべてに感謝をさせていただくようになって来ると、徐々に悪因縁は納消されて、心安らかな平和な楽しい陽気ぐらしの境地にたどり着けることになる。

『“たんのう”は前生因縁の“さんげ”』であり、究極の悟りなのであると思います。

『遠離一切顛倒夢想究境涅槃』(般若心経より)

ひろ
 慶応四年五月の中旬のこと。それは、山中忠七が入信して五年後のことであるが、毎日々々大雨が降り続いて、あちらでもこちらでも川が氾濫して、田が流れる家が流れるという大洪水となった。忠七の家でも、持山が崩れて、大木が一時に埋没してしまう、田地が一町歩程も土砂に埋まってしまう、という大きな被害を受けた。
 この時、かねてから忠七の信心を嘲笑っていた村人達は、「あのざまを見よ。阿呆な奴や。」と、思い切り罵った。それを聞いて忠七は、残念に思い、早速お屋敷へ帰って、教祖に伺うと、教祖は、「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。」と、お聞かせ下された。忠七は、大難を小難にして頂いたことを、心から親神様にお礼申し上げた。
隔離があまり厳しいので、その女房は(医者に診せるのは、殺されるようなものだ)と思い、(どうせ駄目なら最後まで自分の手で………もしかして助かるかも知れない………)と気狂いのようになって看病した。が、夫は寝返りもせず、ものも言えず、死人も同様だった。
その病人も(もう俺はあかん)と思った。しかし水が飲みたかった。飲んでも吐いてしまうことは知っていても、灼けつくような喉の乾きを辛抱しきれない。女房が細いかね筆で唇をぬらしてくれるくらいでは足らなかった。大きなコップで一杯ガブガブのみ干したかった。心で、眼で、「水をくれ」と叫んでも、「俺がこんなに言ってるのに、なぜわからんのか」と叫んでも、舌はこわばり頬の肉はひきつり、言葉にならなかった。その無念、残念、苦悶の中で、ふと思い浮かんで来ることがあった。「まま食べるのも月日やで………」自分が食い、自分が喋るのだと断言していた。が、それはまちがいだ。自分の力よりほかに、もっと大きな絶対なる力が働きかけているらしい、そうに違いない。こう思うと、これほどの真理を説かれる尊いお方を、(狐使い………)などと罵〔ののし〕ったことが申し訳なくて、お詫びの心が激しく動いた。すると頭に胸にはりこめられていた‘もや’が晴れ、しょせん全部とはいえないが、ともかくお言葉の意味がはっきりと悟れた。その瞬間、喉に力が入
り、舌が動き、頬がゆるんで、「水」とひと声叫んだ。
夫は死んだものと思っていた女房は、あわてて水差しを病人の口に含ませた。もう夢中であった。ガブガブと火のような喉に注ぎこんだ。もちろんすぐ猛烈な吐瀉を起こしたが、幾分かの水が腹に治まったらしく、それがきっかけとなって、瀕死のコレラからあざやかすぎるほどに全快してしまった。
神様は因縁あってこのお屋敷にお引き寄せなさるのであるから、わけがわからず帰って行った者にも、こうしてはっきりした‘しるし’をお見せ下されたのである。”(「みちのとも」昭和9年3月号。真実の道 一五○ページ。)


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