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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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 更に又、

 いまゝでハ月日とゆうてといたれど
 もふけふからハなまいかゑるで        一四 29

とて、それから後は、をやという言葉で、親神を表し、

 にち/\にをやのしやんとゆうものわ
 たすけるもよふばかりをもてる        一四 35

と仰せられた。人間の我が子を慈しみ育てる親心によせて、親神は、ただに、神と尊び月日と仰ぐばかりでなく、喜びも悲しみもそのままに打ち明け、すがることの出来る親身の親であると教えられた。そして、一層切実に、親神への親しみの情を与えると共に、月日のやしろたる教祖こそ、まことに一れつ人間の親である、との信頼と喜悦の心を、たかめるように導かれた。
 このように、明かに、鮮かに、親神を信じることが出来るよう導かれたのであるが、なお、胸のわからぬ人々の心ない反対や、世間からのとめ立てが絶えず、それ故に、ふりかかる教祖の御苦労を思うては、時としてはためらい、時としてはまどう者もあつた。教祖は、これをもどかしく思い、ざんねん、りつぷくなどの言葉で厳しく急き込む半面、

 こらほどにさねんつもりてあるけれど
 心しだいにみなたすけるで          一五 16

 いかほどにさねんつもりてあるとても
 ふんばりきりてはたらきをする        一五 17

などと、温かい親心を宣べて、常に、子供達の心の成人の上に、心を配られた。

つづく
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 更に又、陽気ぐらしの世界の建設を普請にたとえては、これに与る人達を、しんばしら、とうりやう、よふぼくなどと称んで、その持場々々の役割を示すなど、人々が容易に理解して、早く心の成人をするようにと心を尽された。
 このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教えると共に、いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、親神を神といい、次に月日と称え、更にをやと仰せられるなど、成人に応じ、言葉をかえて仕込まれた。
 即ち、神というては、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神などと、言葉をそえて親神の理を明かし、或は、

 たすけでもをかみきとふでいくてなし
 うかがいたてゝいくでなけれど         三 45

と仰せられ、神というも、これまでありきたりの拝み祈祷の神でなく、この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護している真実の神であると教えられた。
 次いで、親神を月日と称え、目のあたり天に仰ぐあの月日こそ、親神の天にての姿であると眼に示して教え、世界を隈なく照し、温みと潤いとを以て、夜となく昼となく、万物を育てる守護を説き聽かせて、一層の親しみと恵とを感じさせるよう導かれた。それと共に、

 いまゝでも月日のやしろしいかりと
 もろてあれどもいづみいたなり         六 59

 このあかいきものをなんとをもている
 なかに月日がこもりいるそや          六 63

とて、赤衣を召されたのも、教祖が月日のやしろにおわす真実を、眼に示して納得させようとの思召からである。ここに、月日親神に対する信仰と、月日のやしろたる教祖への敬慕の心とが、次第に一つとなり、教祖の言葉こそ親神の声である、との信念を堅めるようになされた。

つづく
そして、何人にも親しみ易く、覚え易いようにと、歌によせてものされたばかりでなく、屡々、譬喩を用いて理を説かれたのも、深い親神の思召を うなずき易く、理解し易いように、との親心からである。即ち、

 このさきハみちにたとへてはなしする
 どこの事ともさらにゆハんで          一 46

 やまさかやいばらぐろふもがけみちも
 つるぎのなかもとふりぬけたら         一 47

 まだみへるひのなかもありふちなかも
 それをこしたらほそいみちあり         一 48

と、神一条の道を進む者の道すがらを、山坂や、茨の畔などにたとえて、この道は、一時はいかに難渋なものであろうとも、一すじに親神にもたれて通り切るならば、段々、道は開けて、細道となり、遂には、たのもしい往還道に出られると、希望と楽しみとを与えて、励まされた。そして、自ら真先にかかる中を勇んで通り、陽気ぐらしのひながたを示された。
 又、人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁つているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違いのほこりを、絶えず掃除するようにと諭された。

つづく
 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、親神が教祖をやしろとして、じきじき表に現れている証拠として、よろづたすけの道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。

 更に、教祖は、

 このよふハりいでせめたるせかいなり
 なにかよろづを歌のりでせめ          一 21

 せめるとててざしするでハないほどに
 くちでもゆハんふでさきのせめ         一 22

 なにもかもちがハん事ハよけれども
 ちがいあるなら歌でしらする          一 23

とて、親神の思召を伝えられ、

 だん/\とふてにしらしてあるほどに
 はやく心にさとりとるよふ           四 72

と、後々繰り返し繰り返し思案させるよう、心を配られた。この事は、後日、

 これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに
知らし置いた。(明治三七・八・二三)

と仰せになつたように、おふでさきは、耳に聽くだけでは、とかく忘れがちになり易い人々の上を思い、筆に誌して知らされた親神の教である。

つづく
 いまなるの月日のをもう事なるわ
 くちわにんけん心月日や           一二 67

 しかときけくちハ月日がみなかりて
 心ハ月日みなかしている           一二 68

 教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違つた人と罵つた。
 かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかつたとはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得させずしては、いつまでも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めない。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々の身にもなつて、説き聽かせ、或は筆に誌し、又は、親神の自由自在の働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導かれた。

つづく
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。
 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。

 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから         一  1

 そのはづやといてきかした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや         一  2

 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする         一  3

 世界中の人間は、我が身思案に頼つて、心の闇路にさまようている。
それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これをあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その胸のうちを、いさい説き聽かされる。

つづく
05.070
なにもかもせかいぢうゝへをしへたい 神のをもわくふかくあるのに

05.071
それしらすせかいぢうゝハ一れつに なんどあぶなきよふにをもふて

05.072
とのよふな事でも神のゆう事や なんのあぶなき事があるそや

05.073
なにもかもよろづの事をだん/\と ゆうていながらわかりたるなし

05.074
これからハどふぞしんぢつむねのうち はやくすまするもよふしてくれ

05.075
せかいぢうをふくの人てあるからに これすまするがむつかしい事

05.076
いかほどにむつかし事とゆうたとて わが心よりしんちつをみよ

05.077
この心すむしわかりた事ならば そのまゝみゑる事であるなり

05.078
にち/\に神のしんぢつはたらきを しりたるものハさらにあるまい

05.079
なにゝても神のぢうよとゆうものハ めづらし事をしてみせるでな

05.080
とのよふなめつらし事とゆうたとて 神のする事なす事はかり



この世界は神様の身体そのものであり、人間はその神様の懐住まいをさせていただいているのである。
それゆえに、どのような難しいことであろうが、神に出来ないことはない。しっかりとこの世界の真実を悟り得て(根を掘り切ること)、神に凭れ、心を澄まして神の心にかなうような心に成ってほしい!!と言っておられるように思います。

ひろ
05.062
だん/\とこのよはぢめてひハたてど たれかしんぢつしりたものなし

05.063
いかほどに神の心わせゑたとて みなの心ハまたうゝかりと

05.064
はや/\としやんしてみてせきこめよ ねへほるもよふなんでしてでん

05.065
このよふのしんぢつねへのほりかたを しりたるものハさらにないので

05.066
このねへをしんぢつほりた事ならば ま事たのもしみちになるのに



この世界を創造してから、ずいぶん長い時間が経っているが、誰も真実を知っているものはいない。この世界の真実を悟り得たならば、本当に素晴らしい道になるであろうとおっしゃられています。

ひろ
05.009
せかいぢうどこのものとハゆハんでな 心のほこりみにさハりつく

05.010
みのうちのなやむ事をばしやんして 神にもたれる心しやんせ

05.011
どのよふなむつかし事とゆうたとて 神のぢうよふはやくみせたい

05.012
いまゝでハ神のぢうよふしんぢつを しりたるものさらにないので

05.013
これからハいかなむつかしやまいでも 心したいになをらんでなし

05.014
しんぢつの心を神がうけとれば いかなぢうよふしてみせるてな



神様は、しっかりと神様にもたれて、真実に誠の心に切り替えることさえできたなら、どんな病気でも治してやろう、どんな悩みや苦しみであろうがたすけてやろうとおっしゃられているのだと思います。

ひろ
03.135
たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ

03.136
このたびハ神がをもていでゝるから よろづの事をみなをしへるで

03.137
めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん

03.138
しやんせよやまいとゆうてさらになし 神のみちをせいけんなるぞや



再び『かしもの・かりものの理』をお説きになられて、病気は神様の意見であり手引きであるとおっしゃられています。

ひろ


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