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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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 文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんどないくらいであった。けれども、どうしても治らない。
 その時、隣家の矢追仙助から、「オキクさん、あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね。」と、すすめられた。目に見えない綱ででも、引き寄せられるような気がして、その足で、おぢばへ駆け付けた。旬が来ていたのである。
 キクは、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、「待っていた、待っていた。」と、可愛い我が子がはるばると帰って来たのを迎える、やさしい温かなお言葉を下された。それで、キクは、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました。」と、申し上げると、教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに。」と、仰せられて、やさしくお笑いになった。このお言葉を聞いて、「ほんに成る程、これこそ本当の親や。」と、何んとも言えぬ慕わしさが、キクの胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのであった。
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 文久元年、西田コトは、五月六日の日に、歯が痛いので、千束の稲荷さんへ詣ろうと思って家を出た。千束なら、斜に北へ行かねばならぬのに、何気なく東の方へ行くと、別所の奥田という家へ嫁入っている同年輩の人に、道路上でパッタリと出会った。そこで、「どこへ行きなさる。」という話から、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした。すると、夕方であったが、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで。」と、仰せられ、更に、「一寸身上に知らせた。」とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、「身上に知らせたのやで。」とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。
 それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷のお掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。
 中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。
 すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ。」と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
 それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。
 例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」と、非常に御満足の体であらせられた。
 これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
 教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
 そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」と、仰せられた。
『天然というは、急いてはならん/\。よう察してくれ。天然という理以てあちらこちら、どうなるも天然、こうなるも天然。“たんのう”心に治め。心におらどうと思えば、天然と言えん。』(M33.05.03)



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今現在の僕の悟り方としましては、天然自然に因縁通りになって来るのが『天の理』なので、一生懸命に頑張っているのにどうして思うようにならないのだろうか?とあせったり不足を言ってはいけない。
しっかりと“たんのう”の心を治めて、日々、にをいがけ・おたすけに頑張らせていただき神様にもたれきって歩ませていただくことが大切だと、お教えいただいているように思います。

ひろ
 『貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。』

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病気にしても、貧困にしても、実際に体験しなければ、その苦しみはなかなか理解できないと思いますが、幸いにして僕はどちらも体験させていただくことができました。世間的にはなかなかたいへんな苦労ですが、お道を通らせていただくということにおいては、ほんとうに有り難い体験をさせていただいて、心の底より感謝させていただいています。

ひろ
 教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され。」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか。」と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます。」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」と、お教え下された。

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人間は誰しも自分の考えは正しいと思いますが、たいてい間違っていることのほうが多いものだと思います。
お道の話を聞かせていただいた限りは、常に“天の定規”を使わせていただいて人間思案を極力なくしていきたいと思っています。

ひろ
 教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」と、仰せられた。

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たった一粒ずつの“誠真実の心の種”であっても、毎日毎日、こつこつと蒔き続けてゆくことが大切なことなのだということをもお教えいただいているように思います。

ひろ
 明治五年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。お居間へ朝の御挨拶に伺うた市兵衞、ハルの夫婦に、教祖は、「あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ているが、今日からは、普段着のままにしなされ。その方が、あんた達も気楽でええやろ。」と、仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、「今日は、麻と絹と木綿の話をしよう。」と、仰せになって、「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれ
までや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。
 絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。
 そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで。」と、お仕込み下された。以後、市兵衞夫婦は、心に木綿の二字を刻み込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という。
 大和国仁興村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。盆踊りの頃ともなれば、長滝、苣原、笠などと、近在の村々までも出かけて行って、音頭櫓の上に立った。
 明治四年、十九才の時、声の壁を破らなければ本当の声は出ない、と聞き、夜、横川の滝で、「コーリャ コリャ コリャ」と、大声を張り上げた。
 昼は田で働いた上のことであったので、マムシの黒焼と黒豆と胡麻を、すって練ったものをなめて、精をつけながら頑張った。すると、三晩目のこと、突然目が見えなくなってしまった。ソコヒになったのである。
 長谷の観音へも跣足詣りの願をかけたが、一向利やくはなかった。それで、付添いの母親しかが、「足許へ来た白い鶏さえ見えぬのか。」と、歎き悲しんだ。こうして三ヵ月余も経った時、にをいがかかった。「庄屋敷に、どんな病気でも救けて下さる神さんが出来たそうな。そんなぐらい直ぐに救けて下さるわ。」という事である。
 それで、早速おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いたところ、教祖は、ハッタイ粉の御供を三服下され、「よう帰って来たなあ。あんた、目が見えなんだら、この世暗がり同様や。神さんの仰っしゃる通りにさしてもろたら、きっと救けて下さるで。」と、仰せになった。彦太郎は、「このままで越すことかないません。治して下さるのでしたら、どんな事でもさしてもらいます。」とお答えした。すると。教祖は、「それやったら、一生、世界へ働かんと、神さんのお伴さしてもろうて、人救けに歩きなされ。」と、仰せられた。「そんなら、そうさしてもらいます。」と彦太郎の答が、口から出るか出ないかのうちに、目が開き、日ならずして全快した。その喜びに、彦太郎は、日夜熱心に、にをいがけ・おたすけに励んだ。それから八十七才の晩年に到るまで、眼鏡なしで細かい字が読めるよう、お救け頂いたのである。


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僕は、16才から約二年間天理教を信仰させていただいていましたが、事情があり天理教わ離れて長年(約25年くらい)長谷の観音様を信仰させていただいていましたが、これを読んでびっくりしました!!
様々なことを体験するために他の宗教のことを勉強させていただいていただいていたようですが、時旬がきて長谷の観音様が再び天理教に引き寄せて下さったのだなあというふうに思っています。

ひろ
 かくて、教祖は、口に、筆に、又、ひながたによつて、種々と手を尽し、心を配つて教え導き、陽気ぐらしへのたすけ一条の道をはじめられた。更に、深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里ぢばに名附け、又、一れつのたすけを急き込む上から、姿をかくして、存命のまま、恆に、元のやしきに留り、扉を開いて、日夜をわかたず守護され、一れつ子供の上に、尽きぬ親心をそそがれている。
 まことに、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。

 にんけんをはじめたしたるこのをやハ
 そんめゑでいるこれがまことや         八 37


おわり


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