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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『先ず先ず道何程の心尽せども、誠の心を尽さねば、めん/\から定めた心、我身大丈夫と思えども、定めた心間違って居る。独りの内より定めた心、身の踏み処十分と思えども、内々の処めん/\定めたる処、ころりと間違って居る。今一つ道定め処踏み止め処、どういう道が見える知れん。道にて道がある。諭す道一つ道が悟る事出けぬ。めん/\定めた道末代生き通りのように思うて居るから、これがころりと間違うてある。一つ中にて今一時危ない怖わい世界見える。見る処仔細一度二度聞いたるなら、聞いただけ見える。一年二年聞いて、この道今世界善悪分かる際心通り見える。そこで取次より言い聞かせ。多くの人の中、あんな人さいあんな人が出ける。神の一条の道を通れば、大難小難で救かる事、押して、道の順序を押して願えば、おさしづ。さあ成る成らんと言えば、一足跳びの一足も、誰と言うものである。日々めん/\今一時神の道順序難しい。いかなる事も心次第。』(M20.10.01 おさしづ)
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『さあ/\よう聞き分け。何かの事も、身の内処、かりもの処聞いて居る。聞いたとばかりで理を聞き分け。理を聞かす。聞かした事向こい聞かす。身の内処どうしたら癒る。胸三寸話を聞いて、身の内の処発散する。これよう聞き分け。めん/\身の内障りて、胸の内三寸、我がもの。難しい事言わん。誠というは天の理である。誠より外に受け取る処無く、一寸は、この理が分からん。自由自在というは、誠な理から現わすのや。内々の処、誠一つの道、これが第一。一つの話をして置く。』(M20.09.18 おさしづ)
またヤフーの掲示板の記事を少し変えて転載させていただきたいと思います。m(_ _)m


人間は元々神様が創造せられた神様の子供なのであり、本質的には同じなのだと神様はおっしゃられています。
ゆえに仏法では、宇宙(仏)と一体に成りきれたことを成仏というのだと僕は認識させていただいています。
ただ、宇宙を神と呼ぶか仏と呼ぶかの違いで、欲心を捨て去り宇宙の心即ち『天の理』に完全に沿えるまで魂が成人すると『月日にんげんおなじことやで』と言われるように神様と人間は一体なのであるということになると思います。
ゆえに人間そのものは宇宙の一部であり、その神様の子供である一個人という心(魂)のみが自分自身であり、身体を神様からお借りして地球上においてその心(魂)の修養をさせていただいているということになるのです。

ひろ
『さあ/\遠く所事を以て尋ね出る。さあ/\事を以て尋ね出る処、これ諭する。悟りようがある。諭しの処、身の内処/\にて、分からん処が出来る。さあいかなる。遠くだん/\聞くとも遠く聞く。分かり難ない。尽せども/\分からん。随分分からんではない。諭する処時談言葉でも、身の内話かりものあって一条と心が分からいでは、同じ事やで。身の内痛む、悩む処、身の内不足日々思う事一つ、これだけ、これだけすれば、こうなる。身の内改むる事出来難ない。聞きよう諭しようで、分からんでない。早く心がある。痛み所が心に分からん。よう話するのでない。何も難し話やないで。心があって悩む。かりもの事情よう聞け。どうしてくれこうしてくれとは言わん。得心身の内二つある。一つ二つ分かり難ないから頂く事出来ぬ。心で/\話聞き、成程の一事改正の心を供えて、身の内自由自在のものである。』(M20.05.17 おさしづ)
『神様のお心』そのものが、『天の理』(天然自然の宇宙の道理)なのであると思います。
そして、“たんのう”とは、その『神様のお心に感謝させていただき、一切愚痴や不足を言わずに喜んで受け入れて沿いきらせていただくこと。』そして、これを“さんげ”として受け取ると神様はおっしゃられています。
しかし、これには、しっかりとした“因縁の自覚”が必要となります。つまり“因縁の自覚”がしっかりと出来ないと、真の“たんのう”は出来ないということになります。
そして、“因縁納消の道”とは悪の心(持ち前の癖性分)を善の心(神様のお心に沿う心=天の理に適う心)に切り替えて罪を消していただく道であると思います。

『蒔いたる種はみな生えて来るが、蒔かない種は生えては来ない、そして又、自分で蒔いた種は必ず自分自身で刈り取らなければならない。』

各自めいめいの前生および今生における心づかいにより、様々な悩みや苦しみが生じて来る。しかし、これは罰ではなく、なんとかして人間を成人へと導いてあげたいという『神様の愛、慈悲』である。そして、そのお心そのものが「宇宙の道理」であり、『天の理』そのものであると思います。

ひろ
『大きい一つ、大きい育てば一つの心、成程の理が治まる。一つの理は一つの心、一つの諭し皆一つの心という。曇らば曇れ、晴れば晴れ。成程の思案を定め。一日一つ/\の理を治め。一つ/\の事を定めという。』(M22.02.25 おさしづ)
『さあ/\よう聞き分けねば分からんで。話続きも、よう聞き分け。これまで道というも判然ならん。又々一寸々々参りしょう/\思て居る。ほんに成程参り/\始め掛ける。講元一人、所々何か処、取り集め、親と称え親と言うは、子供育てるも、いかなる道を通る。親の心真実道を知らせば親と言う。ほんに言われる親と夫婦同じ事、真実知らせん。身の内同じ道にて神の道聞けども、話聞き、今一時何とも彼とも分からん。よう聞け。分からんでない。講社講元寄るは親元へ寄るのじゃで。罪口説言うはほこり。一寸この場治めて置け。又夜便伺え。一寸楽しみの話ある。』(M20.04 おさしづ)
『さあ/\いかなる処身上一条尋ねる。尋ねる処、さあよう聞き分けねばならん。何程十分々々まあ十分暮らする。何かに十分暮らする処、これまで何も/\分からん。分からん間そのまゝ。身の内理上神のかりもの、聞いて/\一つ理を聞き分ける処速やかならん。尽す一つ理上ある。まあこうして月々年々暮らす。一々不自由、一寸心のたんのう。身の内一つ不足、十分心持ち、身のかりものこれを聞き分け。十分理まえよう聞き分けて置かねばならん。まあたんのうして十分たんのうの心の誠より無いものである。一時成る成らん、日々不自由、よう聞き分けて思案、分からんであろ。じっと身の内治まった処たんのう。誠の誠十分を受け取る。いかなる心十分思う。尽せども、一時一寸思う処聞き置き、いかなるも世上世界を眺めればいかなる人もある。一時何も不自由無く、たんのうの心分からん。心のたんのう心第一。めん/\天のあたゑ十分にあるものじゃ。今までどういう事も世上聞き置く。神の道、思いを取り直せ。理を聞き分けて、心と神の道と身の内話聞き分け。第一身の処
不自由年々不足と聞き分け。何不自由無き処聞き分け。たんのう誠、一つ取り直せ。心早く急ぐ。』(M20.08.16 おさしづ)
『成ってくる理、あるいはあるがままをそのまま何一つ愚痴や不足心を持たずに素直に受け入れること』、まずこれが【堪忍】ではないかと思案します。
そして、それがもう一歩進んでくると『因縁の自覚』ができるようになり、『さんげ』の心がわいてきて、たとえいかなる難儀なことが生じて来たとしても、“決して不足せずに、大難を小難に通らせていただけた”と『感謝』の心がわいてくるようになる。そして、すべての成ってくることを『十分に満足』させていただけるようになってくる。
このように、いかなることに対しても『十分に満足して心を治めさせていただくこと』を【たんのう】というのではないだろうか!?と思案させていただいています。

ひろ
『さあ/\尋ねる事情/\、身上に迫る処、尋ねる。尋ねるからは一つ諭しよう。よう聞き分け/\。この道は、常々に真実の神様や、教祖や、と言うて、常々の心神のさしづを堅くに守る事ならば、一里行けば一里、二里行けば二里、又三里行けば三里、又十里行けば十里、辺所へ出て、不意に一人で難儀はさゝぬぞえ。後とも知れず先とも知れず、天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に。二人三人寄れば皆皆話し、今までは、わしはこんな心で居た、俺はこんな心使うて来た、と皆んなめん/\の心通り、言わしてみせる。神の自由自在、よう聞き分け/\。案じる事要らん/\。こういうさしづあったと、皆々の処へ伝えてくれ。一人や二人のさしづやないで。皆々伝えてくれ/\。』(M20.04.03 おさしづ)


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