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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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ねぇ、だからみんな信仰しても、神様を軽くしないように。私はもう神様を重~くして東京の教会を拵えて、会長さんにいけないって言われて、親の方からもそんな馬鹿なことをするもんじゃないって言われた。何言われてもかまわない、金なんぞ持ってたってしょうがない。教会のことができりゃこんないいことはないんだから。私が教会を買って、そして新築して、なあにいけなかったら自分でもって教会を拵えりゃいいんだ、と思ってすっかり裸になっちゃった。裸になってこっちへ来た。
神様の言葉に『身を捨ててこそ立つ瀬がある』とある。私はもうお道の事には、自分を捨て切ってやったんだ。
東京でもって散々自分の物を捨てて、人に教会を拵えてやったりなんかして立たしてきた。で、私は教会を持って立つのは嫌だから、なるべく地べたへ寝て、一代地べたへ寝てゴザを敷いて、そして布教しようと思った。それ位やったら、ねぇ来生は少しは人間らしい人になるだろうとやってみた。だからこっちへ来ても、そこにゴザひいて布教した。
そうしたら、どうもまあまあ人の助かること恐ろしい。医者がもういけないという病人が、僕がお願いしたら治っちゃう。ねぇ、だからどうも、神様の事は一種別なもんだよ。やって、やって、やり切って通った道が、おかしいじゃないか。とにかくご覧な、周りはぐる~っと皆道路だもん、こんな教会ありゃしない。

つづく
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先代の麹町の会長さんが、もうひじょうに可愛がって下さった。子供以上には可愛がって下さった。「豊ちゃん、豊ちゃん」と言っちゃ可愛がって下さった。そして教会で育てられた。本郷二丁目に二軒長家の片っ方を借りて布教してなすった。息子さん達は反対…。
そこで、私が一緒に働いている内にお父っつぁんが死んじゃって、財産貰ちゃった。そのお金の使いどころがない。だもんだから、自分で好んで、あの今の大教会の建っている地所を私が買った。その時、まだ東京市にならない。でも東京市になるに決まっているんだ。私はそうとみたもんだから、私が買った。そしたらまあ、皆びっくりした!
そんなとこを買って大教会の地所…。まあ何でも僕がいけなかったら持ってるからいい。僕が持ってたってそこの地所に家作さえすりゃあ、もうそれで何にもしなくたって食ってられる。それから地所を買っちゃって、お金がまだあってしょうがない、それからそこに新築してあげた。そうして働いたよ。素っ裸になって働いてたんだ。
だもんだから、みんなが憎がった、親たちが…、「そんな事しちゃったらお前どうするんだ?」「私しゃどうするんだって?こじきしたっていいじゃないか…」「そんな馬鹿な事ばかり言って、いくら天理教やったって、そんな馬鹿になる奴があるもんか…」
それからまあ教会を買ったげて、それからこっちへ来ちゃった。裸一つで…。こっちへ来たら、一年経ったら新築ができちゃった。これは、本部でもびっくりしたよ。なにせ、どうも神様の事はねぇ、これは特殊なもんだ!

つづく
今日は、愛町分教会初代会長関根豊松先生の御命日です。数えでは四十一年、満では四十年目の御命日になります。

僕は、長谷の観音様を信仰していた頃から、当時のお師匠様に『天理教には、誠に素晴らしい愛町という教会の会長さんがおられる。』ということをお聞きしていました。
しかし、もう命が無いというところまで追い込まれた約五年前に、再びお道に導いていただきました。

それから、とにかく愛町の初代会長関根豊松先生のことを詳しく知りたいと資料を探し求めていましたが、なかなか見つからずにいました。
ところが、三年くらい前に所属の教会の本棚をごそごそと探していたら、ほとんど目のつかない開きの中に、関根先生の伝記である『因縁に勝つ』というご本がありました。それを見つけさせていただいた時には、もうほんとにびっくり仰天しました。
たぶん、僕に『因縁の自覚』ということを厳しく仕込んで下さった理の親さん(その教会の親々会長さんで上級の教会で勤めておられます)が求められて本棚の奥深くにしまっておかれたのだと思いますが、そのことを現会長さんや会長さんのお母さんにお話したら、ぜんぜんご存知なかったようで、またまたびっくりしてしまいました。
それで、これはもしかしたら、必死になって道を求めていた僕に、神様がプレゼントして下さったのかも知れないなあと、深く深く御礼を申し上げました。

それから、昨年の始めには、『愛町分教会初代会長様のお声』という幻のレコード(LP版)をお与えいただき、暮れには、『赫ける神人』というご本をお与えいただくことができました。

今年は、これからも精一杯頑張って、教祖(おやさま)のひながたの道を通り切られた関根豊松先生のお言葉や道すがらを主として書かせいただきたいと思っています。

ひろ
『さあ/\身上々々一つの尋ね、心得ん事情尋ねる。明らかの理を諭し/\諭しも無きもの。第一それ/\主と取って気に掛かる。めん/\心に掛かる。心働かにゃならん。余の儀外の儀でない。どういう理聞かせ。理の当然、道明き処、広き処、事情一つの心に持って、どういう事も話せ。何も外の事言うのやない。心に皆理が治まる。どんな事話すやら。随分心得々々という理治めて置かねばならん。今一時治まって、それ/\成程々々、身の処鮮やかなるであろ。』(M24.07.05)
明治十三年四月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、坐骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々治療の限りを尽したが、その効果なく、本人はもとより家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。
 何んとかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、行ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村めざして帰って来た。
 そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、 「救かるで、救かるで。「救かる身やもの。」と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しいお話をお聞かせ下された。そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持になって帰途についた。
 家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。
 そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治十四年の正月には、本復祝いを行った。幸三郎四十二才の春であった。感謝の気持は、自然と足をおぢばへ向かわしめた。おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。
教祖は、「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」と、仰せられた。
 幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった。(天理教教祖伝逸話篇七二より)
『さあ/\身の処尋ねる。一寸の身の不足、願えども聞けども、一つ判然の理分からん。多くの中一つさしづ、世界々々、一つさしづ思う。一国限り一軒一人限りの理、心掛かり/\の処、身は速やか。実一つの理を尋ねる。順序何がある、よう聞き分け。頼む願う理が無い。何でも一つの理を案じる、何程でも案じる。幾重残らず、神の守護何程、たすけ一条。難儀さそう、不自由さそう神は無い。めん/\一つ一ついかん。一そうもう一つ、一つの理がある。どんと一つ据えん。世上見てたんのう、この心一寸治めてくれるよう。又や/\一つ心を運んで安心心定めるで。理を見にゃならん。』(M21.01.12)
『日々は喜んで通らして貰うのやで。喜べない様な日もあろう。喜びにかえて通らして貰うのやで。真実の心で通らして貰えば、喜べるのや。誠の心で通ってくれ。日々通らして貰う心の使い方、持ち方、よう思案してくれ。心の使い方によっては、徳にもなれば、埃にもなるで。真実や、誠やと思うて通っていても、その真実誠の中に埃がまじるのや。それを誠の中の埃というのやで。心の使い方というても、我が身思案からの通り方と、人に救かって貰う、喜んで貰う通り方とがあるのや。塵一つ拾うても誠。大きな木取り片づけても真実といえん事もある。日々よう思案してくれ。誰れにでも通れる事やで。心の持ち方、思い方が大事やで。心の思い方というても、人間はあざないものであるから、都合の良い様に考え、又は思い、我が身に都合の悪いことは、そうはいかんというてしまう。そんな事では道はつくはずがない。都合の良い事も悪い事も、心一つに治めて通ってくれ。神様がきっと連れて通って下さるで。一つも心配いらんのやで。日々通る中に、どんな中もあろう。難儀な中
、むずかしい中、そのならん中を喜びにかえて通ってくれ。その中にご守護が頂けるのや。無理と思うてはいかんで。たいそうに思うやないで。喜びにかえて通って行く中に、あゝ結構やった、有難かったと思える日が必ずあるのやで。その日を楽しみに通ってくれ。今の苦しみは先の楽しみやで。日々を喜んで通らして貰いなはれや。』

これは、明治八年六月十四日、桝井伊三郎氏がお屋敷へ詣り、教祖に、「心が晴れ晴れと致しませんので………」と申し上げたところ、教祖がお話して下さったお言葉だそうです。(「しあわせを呼ぶ心」尾崎栄治著 善本社刊より)
「この道は、自分で聞いて自分で信仰してるんじゃない。魂のいんねんが迫って刻限が来ると、神が引き寄せて神がさしてる道やで。これを人間わざと思うな、この世初めた真実の“をや”がつけてる道やで。」

これは、愛町分教会初代会長関根豊松先生のお言葉の要旨をまとめたものです。
すべての人間は、神様がお造り下さりお育て下さって人生という道を歩ませていただいているのであります。
また、お道に引き寄せられて信仰している人々すべては自分自身の意思で信仰しているんじゃない、すべて神様が魂の因縁に従って連れて通って下さっているのだということを忘れてはいけないよ!!ということです。

そして、お道を通らせていただく心構えとしては、
「救かりたい!救かりたい!と言って、手を合わせて拝むことが信仰ではない。ほんとう(お道)の信仰というものは、決して自分を許さずに自分を捨て切って人をたすけて通らせていただくことである。」

ともお教え下さっています。

ひろ
これは、愛町分教会初代会長関根豊松先生のお言葉ですが、これは、「我が身がどうなっても、人様を救けずにはおかれない!!」という“たすけ一条”の強い強い精神の持ち方をお教え下さったものだと悟らせていただいています。

またこれは、『貧に落ち切れ』と親神様が教祖(おやさま)におっしゃられたお言葉と同様の意味があるものと悟らせていただいています。

『貧に落ち切れ』とは、ただ「あるものをすべて施して、貧しい人々の心を知りなさい」という意味だけではなく、「我が身を捨てて低い低い心になり切りなさい」という意味も含まれているものと思案させていただいています。

つまり、『身を捨ててこそ』ということは、「我が身を捨て切って低い低い優しい思いやりの深い心になって、どうでもこうでも苦しみ悩んでいる人々を救けずにはおられない!!」という精神を持つことが大切なのだということを教えて下さっているように思います。

ひろ
『さあ/\だん/\尋ねる処、刻限順序の理を尋ねる。刻限というものは、何時でも話するものやない。刻限は詰まり/\てどうもならんから、それ/\決まりた理を知らす。何の事でも違うという事は一つも無い。なれど、これまでというものは、刻限の理を聞きながら、どうもならん。何を聞いて居たのやら分からんようなもの。どうでも刻限は間違わん。刻限は積もり積もらにゃ話出けん。時々諭した処が分からん。そこで、何ぼ言うたて分からん。刻限は積もり/\ての刻限である。善き事は何ぼ遅れてもよいがなれど、成らん適わん声も無く、堪えるに堪えられん事察してみよ。誰の事とは言わん。紋型無き処からの道理を見れば、嘘はあろまい、間違いはあろまい。言い難くい事も言い、難しい事も解きほどきて一つ扱う。世上から眺めて聞くにも聞かれん、見るに見られん、心にあれど口には出せぬが理。よっく聞き分け。又集まりて刻限道理から一つ道あれば、疑う事出来ようまい。よう聞き分け。同じ多くの中に一つ、多くの中の中がある。どういう事に思うか。一つ入り込んで
居る。皆々日々話伝えて居るは、中の中である。一つ諭の中、道理がある。元という中に一つ聞いて成程は理であろ。どういう事ぞいな。あんな事か。と、これで道として理に当たるか、理に当たらんか。日々働いて居る/\。よう聞き分け。人の事と思うなよ。我が事になってから、どうもならん。これ聞き分け。何ぼどういう事を言うたて、言うのが悪いなあ、言うてはいかんなあ。包んで居ては真実真の事とは言わん。我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう。』(M32.11.3)


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