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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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昨日、理の子が二人満席を運ばせていただきました。
一人はいわゆる気の間違いの子、もう一人はその方のお母さんです。
僕は、本当に有り難いことに別席のお話を27回聞かせていただくことができました。どうしてかと言いますと、まず初めは高校生の時に聞かせていただきましまが、この時は杖を持たずに歩けないとう理由で(これはご本部の意向か?当時の布教所の先生の意向か?どちらかわかりませんが…)“おさづけの理”を拝戴させていただくことは出来ませんでした。二回目は、五年前の修養科で、この時は、まったく歩くことができなかったのですが、ほんとうに不思議な戴き方で“おさづけの理”を拝戴させていただくことが出来ました。そして今回は、理の子が、「もしかしたら、僕は別席中に大声を出したり奇声をあげたりするかもしれないので、先生(と呼んで下さっています)、別席中ずっそばについていて下さい。」と言ったので、昨日の満席まで毎回傍聴願いを出させていただいて一緒にお話を聞かせていただいたという訳です。

そういう訳で、僕は別席のお話を27回聞かせていただいたということになります。o(^-^)o

なかなか長時間というのが難しいので、順序を運ばせていただくことと、おさづけの理拝戴は二回に分けて行かせていただくことになりました。
また、逐一報告させていただきますが、とりあえず満席を運ばせていただいたことに心から感謝させていただいています。

ひろ
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一人一年経ったらこんな大きな教会をもつようになっちまった。ですから、これは確っかに人間技ではございません。かよう申し上げておきますけれども、皆さんも自分で信仰したっ…と、こういう軽い心を持ってちゃいけません。
教祖(おやさま)が引き寄せて、そうして道の信者に連れておいでになるんです。ですから、その教祖(おやさま)の思召しを精神的に離してはいけません。私は、未だに離しません。未だに離さんもんですから、こんな話ができちゃうんです。
『これを人間技と思うな、この世創めた真実の“をや”がつけてる道やで』、これは神様のお言葉で出てるんです。
ですから、人間技じゃないんですから、はなはだ失礼ですが、皆さんも信仰してる、信仰してるんじゃない、させられているんです。
神が魂を拵えた因縁にどんどんと引き寄せ、そうして道を聞かして下さっているんです。
かような訳ですから、お道が耳に入ったら、“断じて自分を許さない!!”ように心をかけて、心から教祖(おやさま)を信じてお通りになることが、一番大事でございますから、まあ一言申し上げておきます。どうもご苦労様でございました。(昭和42年3月25日)
誠に結構なお天気をいただきまして、誠に結構な祭典ができました。私は心から喜ばしていただいております。
どうか、この信仰は自分自らするんではございません。神様が魂の因縁で引き寄せ引き寄せしておいでられて、道の信者として信仰しておるのでございます。
ですから、もうお道が耳に入ったら、断じて自分を許しちゃいけません。
こらまあ、皆さんに話をするだけじゃあない、私もその覚悟で現在まで来ました。
八つ(満年齢、数えでは九つ)の時に道を聞かされ、もう八つからおたすけをしました。神様の信仰したら、おたすけしなくちゃいけない、こういうふうに思いましたもんですから、夜中に信者のところへ行って…。戸が閉まってますから、開けてはお気の毒様ですから地べたへ座っておたすけして歩きました。
ですから、そこまでやらんでもいいじゃないか…、そらもう今の麹町の先代の会長さんあたりからずいぶん言われました。まあ豊松はバカ野郎ですから、黙って見てて下さい。そうしてやっておりました。
それが何より証拠、こんな大きな教会の教会長に座らされちゃった。こりゃ自分で座っちゃうんじゃない、自分で座ろうたって座れません。神様が、つけてる道ですから、人間の力ではございません。神がここへ座らして下さったんです。
東京でもさんざんやりました。講社もずいぶん拵えてきました。その講社もみんなにやって私はこっちへ来たんです。

つづく
 天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以て、月日のやしろと召されてからは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家財を傾けて、赤貧のどん底へ落ち切る道を急がれた。
 この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合を越えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。
 このように、常人の及ばぬ信念は、却つて人々の冷笑を呼び、離反を招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で食べるに米のない日々を過された。父なき後、一家の戸主となつた秀司は、青物や柴の商によつて、日々の生計をはかつた。しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀を見ては、やつと手にした米を、何の惜気もなく施された。
 或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾つて、嬉々としているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか着更さえもなくて、半分壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏になつても吊るに蚊帳なく、冬は冬とて吹きさらしのあばら屋に、あちらの枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、点す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこともある。
 十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。
 月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過されたが、やがて、をびや許しによつて示された珍しいたすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、これらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたことは数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治ではなかつた。盲人もその場で眼を開き、気の狂うた人も、すきやかに正気に復した。(天理教教典第五章「ひながた」より)
お道というものは、人を助ける心になって、自分が人を助けるのが、お道じゃないか………。心が違ってる………。前生の自分はどうだったか分からないんだから………。
ねぇ、地べたへ寝てお道をやろうと思って、俺みたいにやって………。そしたら、結構になっちゃって仕様がないんだ。東京で結構で仕様がないから、こっちへ来たんだ。
我が身が助かりたい、我が身が助かりたい、自分が結構になりたい、そんなものあるものか。いくら探したって………。
人を助けるから、自分が結構になるんじゃないか。こらよく聞いててよ………。(昭和42年6月28日の夕づとめ後の御講話より)
………で、その証拠にね、自分があのおっかさんのお腹に入って、俺は子供になって出て来てやろうと思って出て来た人などありゃしない。
そんなこと思っておっかさんのお腹の中に宿ってきた人などありゃしない。宿ってもらうなら、皆いいところに宿ってもらうはずだろ?悪いところに子供はできやしない。だが失礼だが、まったく食うや食わずの中へ子供ができるわけだ。ほら、子供はそんな望みはないんだろ?
ねぇ、その子の前生因縁でいいところにも悪いところにも出るんだ。前生の因縁で出てるんだ。
ねぇ、だから、前生の因縁をもってお道を聞いてりゃいいんじゃないか…。
ねぇ、道を聞いて道を守ってく。道を聞いて道を守ってくというのは、人を助ける心になって、真実の実をもって人を助けてりゃいいんだ。内にいても親を助け、兄弟を助け、内の中にいる者を助け、ねぇ、外に出たら、ねぇ、病人を見つけたらお助けをさしてもらう。
断じて自分を許さない。『身を捨ててこそ立つ瀬がある』というんだから、自分の身を捨てて人を助ける心になりゃあ、助かるに決まっているじゃないか。
ねぇ、これは皆が聞いとく事だよ。お道すりゃあ、皆助かると思っているけど、そんな了見違いして聞いてる奴あるもんか。教会来て話聞いてりゃ、お道だと思って………。こりゃ、お道じゃないんじゃないか………。

つづく
ねぇ、それでこの話を聞いて、全く天理を悟ったら、必ずその人の行く道は立派になる。天理を悟るってことなしに聞いてるよ皆………。ねぇ、聞いてる人間のところへ入ってく話がどう聞いてるかと言うと、ほら、自分が結構になって自分が立派になることが腹にあるだろ。だから、聞き間違いしてる、聞き間違ってる。
神様のお言葉には『身を捨ててこそ立つ瀬がある』。それ証拠に私はまだ身を捨ててられる。なぜって言うと、皆の顔を見ると一生懸命話をしてる。
自分が結構になったからって、人のことはほおっときはしない。顔見ると説いていたい。ねっ、一生懸命道やってる。私は結構になろうと思ってやっているんじゃないんだ。結構になろうと思ったってなれやしないよ。神様がしないもの。そんな欲な心持ってたんじゃ…。
ねぇ、私はまだ難儀するのを喜んで、神様のためだったらなんでもやろうと思って…。
その心だから、神様のために話をしてるんだから、皆に…。だから、こういうところにも坐っていられる。
ねぇ、だから皆も、お道を聞いたら、断じて自分を許さない。助かろうなんて心を持っちゃいけない。持たないたって神様の理に沿っていけば、助かるに決まってんだ。

つづく
『人を助けてこそ我が身が助かる』というお言葉が神様にはある。ねぇ、ですからどうしても一代自分を捨ててお道をやってやり抜いた者なら、こういうところに坐っていられるんだね。だけど、私はもうこういうところに坐ってたって、こういうとこに坐っている気はありゃしない。
やっぱり難儀する事を楽しみにやっている。これをこういうところに坐って、やれやれと、もういいと思って気を許してうっかりぼーっとしてやってると、いけない。ねぇ、なぜいけないかってい言うと、もうそれで偉い心が出ちゃってるから、その人間はかたわになるか、ねぇ、軽くいって命がいくか………。
「欲があるならやめてくれ」って言うんだから、欲の心を出して神様にすがったってダメじゃないか。
その神様のお言葉の中に、『身を捨ててこそ立つ瀬がある!』、こういうお言葉がある。ねぇ、だから、私はいまだに身を捨てている。
それ証拠にお前さんたちの顔を見ると、ねぇ、僕はお話をしている。偉い先生だから、もうお話もしないでさっさとえばって帰ってしまう人もある。ところがいけない。ねぇ、私の話と話が違う。神様がさせなさるんだ。
助かろうと思うんじゃない。助けようと思わにゃいけない。ねぇ、それが、私の信仰だったから、私は今立派になったって皆の顔見るとちゃんときちんと話をしてる………。

つづく
私は、一代地べたへゴザひいて寝てお道をしようと思ってやったんだ。一代やったら少しは人間らしくなるだろうと思ってやったんだよ。そうじゃない、やってる内にこんなことになっちゃったんだ。こんなことになっちゃったんだって、なんだか財産でも無くなっちゃって困ったような話だけど、そうじゃない。一代地べたへ寝てお道をしようと思ってやってみたんだ。そうしたら、一代どころのさわぎじゃない、そんなこと言ってやってみて一年経たないうちにこんなになっちゃった。
神様のお言葉にもあるよ。『身を捨ててこそ立つ瀬がある』これは、神様のお言葉なんだよ。
ねぇ、ところがどうもお道を聞いていると、ねぇ、お道をもって自分が助かろう、助かろうと、こう思って皆かかっているらしいんだよ。信者さんでも教師でも。ねぇ、だから自分が助からないんだ。
『身を捨ててこそ立つ瀬がある』って言うんだら、自分一代地べたへ寝てお道やろうと思って私はやってたんだよ。一代お道をやったら、なんとか人間らしく成るだろと思ってやってみた。そうしたら、一代どころじゃない、わずかの間にこんなになっちゃったんだ。
ねぇ、お言葉には、『身を捨ててこそ立つ瀬がある』っていうお言葉があるんだ。身を捨ててこそ立つ瀬があるって、それが分からないんだよ、人間には。私も分かんなかった。自分がやってみたら、なってきたんだ。やってみたって、成るだろうと思ってやったんじゃないんだ。成るだろうと思ってやったらだめだ、欲が働いちゃうから。
自分は一代難儀してもいいから、お道をやろうと思ってやったんだ。そしたら、こんな事になっちゃった。

つづく
ねぇ~、だから神様の事は、全く自分を捨ててやり切って行かなきゃいけない。
………………………………
お道というものは一種別のもんなんだ。私はさんざんその中を抜けて来た。ねぇ、どうにも人がいけないってものを助けしてきた。人間力でかなわんものが助かんのがお道じゃないか!
ねぇ、だから道というものは、まったく自分を捨て切ってやって、やり切ってみなきゃあ、本当の道は分からない。私は自分を捨て切ってやり切って来た。まあ一代地べたへゴザひいて寝られりゃいいって。
………………………………
私は、難儀しようにも難儀はできない。東京でもさんざん難儀しようと思ったけど、どうしてもできない。しょうがないから、こっちへ来たんだ。
だから、この道は、信仰して助かろう、助かろうでうまい事ばかり考えている人は、いいご守護がないんだよ。全く身を捨ててこそ立つ瀬があるんだ。私みたいに自分を捨てちゃって、お道のことを一生懸命やったんだよ。そうしたら、私みたいになっちゃった。そりゃまったくそうだろう。
御教祖様が自分を捨て切って、ねぇ、あんなご本部ができたんだよ。ご本部が出来たからって、御教祖様はそこにいて立派になったかというと、ご自分は苦労して苦労して、あれを拵えて終わられた。
ねぇ、だから、助かろうと思ったって助かりゃしないよ。助けようと思わなきゃ助かりゃしないよ。
ねぇ、だから、助かりたかったら、人助けたらいいじゃないか。助ける心が人を助けるんじゃない、自分が人を助けといたのが、自分が助かっちゃったんだ。そしてこんな立派な教会に坐れるようになちゃった。

つづく


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