忍者ブログ
僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
[222] [223] [224] [225] [226] [227] [228] [229] [230] [231] [232]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

神様から、「長年ご苦労であった」と言われる迄やり切らなければいけません。『さあ、さあ、やり切れし切れ、人間踏ん張れ、神も踏ん張る』として待っておいでです。私は、散々の中を抜け切って来ました。関根は、叩きつけられても、ねじ伏せられてもやり抜く、因縁なら、どんな中もどんな事も抜けます、この精神が道の者です。道は、俗に「覚悟の信仰」と言われて、難儀の中程、苦労の中程、喜んでやり切る。難儀結構、苦労が財産――と言われますように、苦労の中勇んで抜けました人間は、自由用の理を頂いております……私は、命のある限り親様に使って頂こう、この覚悟をもって喰い物なければ水呑んでも通ろう、寝る所なければ余所(よそ)の軒下借りても、着る物なければゴザかぶっても、道をやり抜くぞ、こうして通させて頂きましたが、確かに神様はあります。会長さんが、「関根さん、そこ迄するな、そこ迄しなくてもいいではないか」と止められました、その人間は、自由用自在の働きをみせて頂いております。(『赫(かがや)ける神人(かみびと)』〔愛町初
代会長関根豊松先生〕 高橋宏之介著 源書房刊より)
PR
同じ人間が、どうしてそんなにも、大きな隔たりを持っているのか――それは魂に徳があるかないか、魂が汚れているか、いないか、によって違ってくるのであります………お道の人は、一時の欲よりも、もっと大きい天徳を求めるのですから、徳より外の報酬は、何一つ要らないのであります。魂に徳を積む――仕事程、心の楽しいものがありましょうか。ひたすら、神様の御用に汗を流し、勇んで自分を出し切って行きます。この勤め切って行く喜びこそ、ひのきしん精神と呼ばれて、味わった者だけが知る人間至上の喜びなのであります……では、徳になる働き、天理に叶う働き――とは、どういうものでしょうか……進んで神様の御用をさせて頂く、世界助けの親神様の思召しに少しでも添わして貰う様に、勤めて行くことであります……『言われてするのは当たり前、言われてせんのは強情者、言われん内にするのが誠の者や』と教えて頂いています……ひたすらに魂に徳を積む事が如何に大事か――人が見ている処でした善行は、人から御礼も言われましょう。然し、人の知らない処で
した善行こそ、必ず神様が受け取って下さっているのであります。伏せ込まれた陰徳程、培養されて大きな陽徳となり、貴方の生涯を守ってくれるでしょう。かくして、貴方の望む陽気生活が、貴方の勤めによって生まれてくるのであります。さぁ、何で迷いがいるものですか。一点の嘘も損もない――神様の支配のこの世界で、勤めただけが我がものであり、打ち込んだだけが自分に返ってくる事を信じて、ひたすら勇みの中にお進み下さい。積んだ徳こそ我がものであり、幸福はそこに招かれてくるのであります。(『赫(かがや)ける神人(かみびと)』〔愛町初代会長関根豊松先生〕 高橋宏之介著 源書房刊より)
お道の信仰というものは、只自分で信仰したんじゃございません。神が引き寄せていなさるんです……神様が、人間の魂の因縁に順じて引き寄せていなさるのです……神様が引き寄せて、そうして連れて通っておいでになるんです。今に御覧下さい。この宇宙は、この道を聞いて通らなきゃ、人間が行かれなくなっちゃいます……皆さんは早く聞いて幸せです。これは精神的に軽くしないように、よく心にお置きになってお通りになる事が一番大事です……道を聞いて、道を止めて御覧なさい。その人の行く道が、可哀相なことになりますよ……道を離れちゃいけません。道を又、腹の中に嫌っちゃいけません。何故こんな事言うかと言うと、やっておいでになる事が、うまく行かなくなって了います。これを一生懸命やって御覧なさい。やっている事が、都合よくなってきます。順よくなってきます。又、この位面白いものはございません。数限りなく人さんを私が丹精してきました。これは、皆さんが聞いておく事です。(『赫(かがや)ける神人(かみびと)』〔愛町初代会長関根豊松先生〕
 高橋宏之介著 源書房刊より)
『さあ/\/\尋ねる処/\、先々の事情これまで三つ一つの理を諭そう。前々何か心に事情あって一つの道と言う。運ぶ中に心得ん。どういう事であろうと思うやろ。道のため世界のため運ぶ尽すなれど、身上がどういうものと思うは理である。先々の処はどうやろと思う。運んで一つの道、尽す一つの道で、いんねん一つの理を聞き分けて、先々どうこう思う事は要らん。楽しみの道や。よう聞き分け。身上は案ぜる事は要らん。楽しみ/\の道や。身上は速やかで/\。』(M23.05.15)
先日のコメントのレスに少し手を加えて今日の記事とさせていただきます。m(__)m

宇宙にはアカシックレコードというものがあり、元初からのすべての魂の記録装置のようなものがあり、すべての魂の因縁が刻まれているというふうにお聞きしています。
即ち、人間一人一人の魂の記録が『天の帳簿(帳面)』として記録されていて、それぞれの人生における“徳”と‘ほこり’の差し引き勘定が記されているようです。
しかし、ほとんどすべての人間は、‘借金’(ほこり)ばかりで、なかなか“預金”(徳)のある人はいないことになると思います。

その積もり重なった‘天の借金’の返済方法を、天保九年に宇宙の根本神であり人間を創造された“月日親神様”が“おやさま”を通して詳しく説いて下さったのが、『天理教の御教え』だと僕は悟らせていただいています。


前述させていただきましたエドガー・ケイシー氏は催眠状態に入り、アカシックレコードにアクセスすることが出来たようで、たくさんの人の前生(過去世)を語り病気の原因や悩み苦しみの原因を紐といたりされていたようです。

しかし、愛町分教会の初代会長の関根豊松先生は、おそらく、催眠に入らずにケイシー氏と同じようなことがお出来になられ、尚且つ神様の働きをその身に示された稀有なる神人(かみびと)だったのではないかと僕は思わせていただいています。

ひろ
よくお道の心になって、どんな事されようと、どんな酷(ひど)い事にはまっても、いくらつらい事があっても、誠っきりしか遣(つか)いません……どんな目に合っても、どんな中にはまり込んでも、真実誠の心しか遣いません……誠の心で通り、真実かけて曲がった心を遣わずに通ってましたら――何一つ困る事はありません。ぶたれても、蹴(け)られても、誠の心、自分に自分を治めて道の心で通るのです。『身を捨ててこそ立つ瀬がある』と(神様が)仰っしゃってますように、自分を全く捨て切って、人さんの為、社会の為に尽くし切る……私はさんざんやりました。自分の敵の人程、見捨てないで、自分の好かない人程、誠を尽くし、厄介な仕様がない人程、真実尽くして誠をかけていくのが、人間の本分です。そうして人に誠をかけてきた人間は――どうでしょう。助かって助かって仕様がありません。『真実に人を助ける心なら、神の口説きは何もないぞや』神様のお言葉です。とかく人間は、人を助ける事が嫌いです。人に真実尽くす事も嫌いです。自分さえ助かればいい、自
分さえ良くなればいい、これが人間の本性です。こういう心で通ってますと、どうなるでしょう。向こうを助ける為に、手も付いています。人を助ける為に目も付いています。人の為に体も付いております。これを全く道の精神で治めて通り、すべて人さんの為、すべて人を救ける為に使ってましたら、人間に困る事、苦しむ事はありません……あんないけない人間を、あんな仕様がない人間に、誠をかけて――と、ずいぶん人に言われました。会長さんは何だ、あんな人間に――と、よく言われましたが、いけない人間程、悪い人間程、丹精してやりましたので、皆立派な人間に仕上がっております。あんな人間、こんな人間――と、いけないいけない――と、言っていた人は、早桶(おけ)です。私が誠をかけて丹精した人間は、立派になってしまいました。その人達は――立派な教会長に立ったり、社長の立場になったりしております。このくらい確かな道はございませんから、一緒に通ろう、一緒にやってくれ――というのはそこです。(『赫(かがや)ける神人(かみびと)』〔愛町初代
会長関根豊松先生〕 高橋宏之介著 源書房刊より)
『さあ/\尋ねる事情、身上に不足なるは、どういうものと思う処は、よう聞き分けにゃならん。一名々々に皆違うでな。この理を諭し置こう。めん/\にも人に諭して居るやろう。聞いて居るやろう。めん/\も身上に不足なる処は、悟らにゃならん。内々の処よう思やんせよ。蒔いたる種は一度は皆生えるものである。前生いんねんこの理を聞き分けにゃならん。前生の理を見て、身上あって楽しみ。身上無うては楽しみ無いである。十分の処は、これからと思う処は、楽しみと思うてするなら、この理を追々聞き分けて通らにゃならん。一列は世上見てたんのう/\の心という。この理を諭し置こう。』(M23)
『さあ/\尋ねる事情/\、身上事情尋ねる。身上の処一時どうと言うではない。なれど、一寸身上大層。どういう理いでなるという。一つの所にてこういう事であろうという。内々事情一つには、世上思う事情よく聞け。事情遠慮が無い。身上迫る処事情はいんねん。いんねん事情聞いて理を諭そ。一時事情大層、十分事情運び、事情早く掛かり、事情はいんねん。一時大層という。』(M24.01.18)
『さあ/\事情はいんねん尋ねる処、いんねん事情、いんねんの事情は、とんと分からせん。心で諭して身上の事情、一寸は大層。早く聞き分け。早く事情先ず/\暫く踏ん張らねばならん。いんねんの事情、どれだけいんねんと言うても、たゞいんねんでは分からん。いんねんの理を諭して、身に不足なるは、よく聞き分け。一つの理を聞き分け。いんねんの理を鮮やかと、この理を諭してやってくれ。』(M23.01.29)
ちょっと今日は、少しおもしろいというか、たぶん皆さんも興味がわきそうなお話をさせていただきたいと思います。m(__)m

お道には『蒔いたる種はみな生える』というお言葉があるのは、ご存じかと思いますが、キリスト教などおいてもおなじような言葉があるのをご存じでしょうか???

『人は蒔いた種子は必ず刈り取らなければならない』(聖書)

というものですが、以前にもご紹介させていただいた“エドガー・ケイシー”氏は、敬謙なクリスチャンでありながら、“人間の魂の生まれかわり”を不思議な形で実証されていて、『人生は一回のみではない、魂の成長と愛の完成のために………』という言葉を残されています。

なぜこういうことを書くのかと言いますと、最近また、ケイシー氏のご本を読ませていただいていますが、僕の中で最もインパクトのあった箇所は、

「私利私欲のために他人を妨害することは、下肢の麻痺を招く」

というところでした。

これには、ほんとにびっくりしましたが、まず間違いなく事実であると思っています。
お道のことを深く研究、勉強させていただくにあたり、神様は様々なご本をお与え下さっているように思います。

最近また、ケイシー氏のことを題材にした『転生とカルマの法則』というご本をお与えいただきました。そこには、「キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教などの根本の神は同じである。」と書かれ様々な面から説かれてありました。

僕は、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教については詳しくは知りませんが、キリスト教、仏教、イスラム教などと同じように、すべて同じ神様、即ち『親神天理王命』様が、その時代時代に応じてお現れになられて説かれた御教えなのではないか?というふうに認識させていただいています。ただ、聖典を解釈した人間の自我によって歪みが生じ、極端な教えが展開されてしまっているだけなのだとも思っています。m(__)m
それから、『生きがいの創造』という、全く宗教とは関係のないところでの「飯田史彦」先生の“生まれかわり”についてのご本もお与えいただきました。
どうやら、世界は“水瓶座時代”に入り、我々人類(人間)は真摯に“生まれかわり”や“前生の因縁”について、そして、真の人生の意義をしっかりと研究、勉強、そして、実践させていただかなければならない時代に成って来ているのではないでしょうか?

ひろ


忍者ブログ [PR]
最新コメント
プロフィール
HN:
ひろ
性別:
非公開
フリーエリア