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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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『さあ/\よう聞き分けて、いつ/\までも、何かの処順序一時一つ聞き分け。諭する処、これは天然自然の道、一寸見え掛けてある。どうか一つたんのう、前一つ心でいうは第一の処、世界中善も悪も無い。どうもならん。どんと一つ処長々道、家内銘々それ/\、銘々一つ心得んと思う処、これだけと思えばこれだけのこうのう。これだけの事ならたんのう。聞くと直ぐや。すきやかなれば直ぐと一つ尋ねに出よ。』(M20.11.05)
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『さあ/\暫く/\。大抵の処運び切り/\、今までの処、分からなんだ。分からんなりに運び来た。天然自然誠という事、天然自然の道失わさん。心一つ映して、成程の処へ諭して分かる。大層々々の処、こうして運べ。さら/\癒さにゃならんならん。あちらからもと言うて、組み立てる。固めねば治まり付く。案じる処無い。身上一つ尋ね出る。日々送る処、年々に送る処、日々の日一日の日でも、うっとし日もある。それでもやはり、送らにゃならん。』(M20.11.02)
『さあ/\/\/\日々の事/\/\今一時どうせねばならん/\とは言わん。今の処というは、今日はこう/\と思う処ある。一人なりと一所なりと/\。内々成る処も思やんの処もある。日々の処も思う処がある。日々一人なりともという処続くよう。どうこもならんようになるで。今処内々の処も案じあるようなものやで。随分名も通る。どうせえとも言わん。後へ戻りたら、何にもならんで。随分々々じいとして/\も、今からや/\、世間から言うように成りて来るで。そこでじいとして居られんように成る。成りて来るで。今の処は心を配ばりて、楽しんで居るようの心定めてくれ。』(M20.10)
『さあ/\/\身上々々身上処、ほうと思う、心得ん。これまでも聞いて居る。自由自在々々々々聞いて居る処、ほうと思う。今の処とんと十分の心通り見えん。どうや知らん/\思う心、すうきり除けねばいかん。これは道すがらや、長らくの道すがらなら、一分の道すがらならと通らにゃならん。今からこうと思うよは行かん。案じる事は要らん。案じば案じが回る。』(M20.10.15)
『さあ/\よう聞き分け。何かの事も、身の内処、かりもの処聞いて居る。聞いたとばかりで理を聞き分理を聞かす。聞かした事向こい聞かす。身の内処どうしたら癒る。胸三寸話を聞いて、身の内の処発散する。これよう聞き分け。めん/\身の内障りて、胸の内三寸、我がもの。難しい事言わん。誠というは天の理である。誠より外に受け取る処無く、一寸は、この理が分からん。自由自在というは、誠な理から現わすのや。内々の処、誠一つの道、これが第一。一つの話をして置く。』(M20.09.18)
一昨日は、所属の教会の月次祭でした。僕は、太鼓と後半下りの地方を勤めさせていただきました。

その月次祭の祭典の後、巡教の先生が、『徳』という漢字の成り立ちのお話をして下さいました。すごく感銘を受けましたので、今日の記事とさせていただきたいと思います。

『徳』という漢字は、「彳」と「悳」という字で出来ている。「彳」は“行う”という意味で、「悳」という字は“素直な心”という意味があるから、『徳』という字には“素直な心で行う”という意味があるというようなお話でした。

それで、家に帰って辞書で詳しく調べてみると、「彳」は、「行う」という意味であり、「悳(とく)」は、“十の目で隠れたものを見る心”、即ち、「正しい素直な心」という意味があるということがわかりました。
そこで僕は、ふと思ったのですが、“十の目で隠れたものを見る心”というのは、『十柱の神様の御心に叶う心』なのではないかなあとも思いました。

ゆえに、『徳を積む』ということは、“天の理に適った、正しい素直な心で行動すること”なのではないか!?というふうに思案させていいただいています。
ひろ
『さあ/\いかなる身の障り一つ真を改め置け。いかなる処聞き分け。真を定めくれるよう。五十年以来だん/\随き来る。一段一大事これからである。一つ奮発、これをしっかり聞き伝えてくれ。一時分かる分からん。これから胸一つ誠一つ大丈夫の心一つ、道の道なら道のためいかなる段、替わる/\道筋に、誰がどう言う、どういう事を尋ねる。いかなる話五十年以来ちゃんと分かってある。これ一番の処、一つ定め。いかなる事情、何尋ねる。道は五十年道すがら、余の儀外の儀は要らん。身の上一条かしもの第一、話す処々自由自在これからやで。五十年以来めんめん我年跡、身の上一つに取って諭す。何も余の儀外の儀ではない。何時見えるとも、めん/\それ/\話ちゃんと集めて、一つ話、十分話余の儀でない。一つ話遂げ、何聞き何尋ねても、五十年以来めん/\何箇年である。それより先々諭する。一つ心に凭れ。』(M20.07.04)
『さあ/\遠く所事を以て尋ね出る。さあ/\事を以て尋ね出る処、これ諭する。悟りようがある。諭しの処、身の内処/\にて、分からん処が出来る。さあいかなる。遠くだん/\聞くとも遠く聞く。分かり難ない。尽せども/\分からん。随分分からんではない。諭する処時談言葉でも、身の内話かりものあって一条と心が分からいでは、同じ事やで。身の内痛む、悩む処、身の内不足日々思う事一つ、これだけ、これだけすれば、こうなる。身の内改むる事出来難ない。聞きよう諭しようで、分からんでない。早く心がある。痛み所が心に分からん。よう話するのでない。何も難し話やないで。心があって悩む。かりもの事情よう聞け。どうしてくれこうしてくれとは言わん。得心身の内二つある。一つ二つ分かり難ないから頂く事出来ぬ。心で/\話聞き、成程の一事改正の心を供えて、身の内自由自在のものである。』(M20.05.17)
『さあもう十分日が詰み切ってある。もうはじけんばかり。もうせえつうが来たるから、この間から角目々々の話聞いて居る者もあり、すうきり知らん者もある。よって知らん者には聞かしてくれるよう。見れば否や、思えば否や、言えばそのまゝ見える道に成りてある。さあ/\家内それ/\の処、さあこれはどういう事や知らん、どういう道になろう。さあいよ/\綾や錦仕事に成りてある道、さあどんと心落し付けてくれにゃならん。さあふでさきの角目々々、又これまでに聞かしてある話の角目、よう思やんしてくれにゃならん。』(M20.03.24)
『さあ/\/\尋ねる一条々々、第一身上一つの理、さあ/\何が間違うであろう。めん/\日々勤める処、めん/\掃くに掃かれん一つの事情々々、めん/\前々掃くに掃かれん事情々々、さあ/\心一つの安心という事情を、早く/\諭してくれ/\。前生々々いんねん一つの事情、掃くに掃かれん一つの事情、世界の処見分けて、さあ/\一つのたんのう、早くたんのう。』(M23.02.15)


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